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2016年08月25日

御堂関白藤原道長のチャンス

御堂関白藤原道長。

平安時代中後期、藤原摂関政治最盛期の氏の長者であります。

天武、持統帝時代に律令政治を実質的に仕立て上げた、大職冠 藤原鎌足の二男にして右大臣 不比等から数えて11代目。不比等没後242年を経て生まれております。thGIRROC95

 

この間不比等の4男子(長屋王の祟り?なのか一斉に没するが)を発生とする、藤原4家は中には謀反を起こすものもいたりしながら、古代貴族を次第に追いやり、賜姓された源平橘氏等を主体とする貴族たちをも取り込みながら、繁栄の一途をたどって参りました。

 

藤原4兄弟の二男房前を発祥とする北家は、必ずしも当初から繁栄した血筋ではなく、最初はむしろ長男武智麻呂の南家や、三男宇合の式家の方が華やかでした。

房前のひ孫にあたる冬嗣が、嵯峨天皇の側近として重用され薬子の乱を経て大抜擢されたことと、その次男で人臣最初の摂政となった良房(804~872)の時代に北家全盛の礎が築かれました。

更にそれから5代、約百年後の10世紀末から11世紀に掛けて栄華を誇り 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の欠けたることも なしと思へば」と詠ったのが従一位 摂政 太政大臣と人臣を極めた 藤原道長その人であります。

 

さて、道長自身は父兼家の五男(四男説もあり)であり、父兼家(三男)が長兄伊尹の庇護があっても、次兄兼通との軋轢で紆余曲折を経て関白になったように、一族には相応のライバルがあり、必ずしも順調に位人臣を極めた訳ではありません。

 

道長の最大のライバルは中関白家として一家をなしていた、長兄道隆の一族であります。父兼家は自身の娘詮子が産んだ懐仁親王を早く皇位に付けるために、花山天皇を騙して出家させてしまい、即位をさせ摂政・氏の長者となります。

そして長男道隆を内大臣とし、律令制度史上初の四大臣制度とし、関白にまで上り詰めてその三日後に病気を理由に道隆に関白を譲って出家します。

この時に道長は従三位権中納言で、長女彰子誕生の時期です。

 

道長に第一のチャンスが巡るのは、この道隆の死去によります。どうもまっとうな病気というより、大酒による糖尿病の悪化とのことです。995年享年四三歳。嫡(次)男伊周の関白就任の奏上など、最後には随分ばたばたしたようですが、認められず弟である三男道兼が関白となりました。

その道兼も数日で伝染病により亡くなります。

 

この時点で、道長は二九歳権大納言。対して伊周は二一歳で急激且つ強引な引き上げで内大臣となっていました。

道隆の強引さは世間の反発を招いたようで、特に一条天皇の生母詮子(東三条院。道長の姉、道隆の妹)は厳しく伊周よりも道長を推し、その結果道長は内覧、右大臣、藤原氏の氏の長者となります。

翌年、伊周は何と花山上皇に矢を射かけるという重大事件を起こし、大宰権師に左遷され、弟である三男隆家も連座し地方(出雲権守)に飛ばされます(長徳の変)。

これが第一のチャンスでありますが、想像するに21歳の伊周に対して、詮子も含めた周りが抱いた、一種の危うさと父道隆の強引な引き上げに対する嫌悪感が、きわめて男性的で伊周よりも多少年上の安心感が好感度を得たのでしょうか。

翌年に「ああ、やっぱり」と思わせるような事件を起こすことは別として。

一条天皇は中宮定子の兄である伊周を推したようですが、母である詮子に強く請われて道長を選んだということでしょうか。

 

さて次のチャンス。

摂関政治時代に限らず、代々の首班が娘を入内させ、その子が皇位を得ることで外祖父として時の権力を得るという図式はセオリーとなっています。

 

一条帝には990(13歳)年に入内し、その年に中宮立后された道隆の娘定子が正妻としております。この定子の女房として「枕草子」の作者清少納言がつかえています。

長徳の変で兄二人が左遷させられた時に、定子は19歳、内裏を退出し出家しています。この時には伊周の護送に際して、母高階貴子(道隆の正妻、定子の母でもある)の嘆きはひどく、間もなく亡くなっています。

ですがその年の12月に定子は一条帝の第一子、修子内親王を出産するという、逆転ホームランを放ちました。

 

喜んだ一条天皇に懇願され、翌997年に再入内し999年11月7日には念願の敦康親王を出産。尚、恩赦として同年に伊周は帰京を許されます。

 

この11月7日は、実は道長の娘彰子が入内6日目にして女御宣旨が下った日でもあります。988年生まれの11歳。定子の清少納言に対して、紫式部、赤染衛門、和泉式部更に紫式部の娘、大弐三位などそうそうたる文化サロンを作り上げていますが、これも道長の趣味のようで、紫式部の源氏物語原稿の催促に、式部の局に入りびたりという逸話も残っています。

 

清少納言と紫式部。どちらかが、相手を嫌な奴みたいなことを書いていたという記憶があるのですが、どちらであったか定かではありません。いずれにせよ翌1000年には定子は媄子内親王を出産した直後に崩御していますので、この二人が同じ宮廷内に共にいたのはわずか1年位なのでしょうか。

 

彰子は1008年20歳にして敦成親王(後の後一条帝)を生みます。

定子の産んだ敦康親王と彰子の産んだ敦成親王のどちらを皇位に付けるか。既に定子は亡くなり、伊周の中関白家も既に没落しておりましたが、道長はここでも周到に定子の母である高階貴子を引合いに、道長のブレーンで一条天皇の寵臣でもあり、当時の朝廷で故事に優れた知識人として知られた藤原行成に「高階氏の血を引く敦康親王の即位は、伊勢神宮の怒りを買う」と進言させて、とどめを入れています。

 

最終的には一条帝、三条帝、後一条帝と三代に渡り娘を入内させています。逆に長男頼道は外祖父とはなれず、その結果摂関政治から上皇政治に形態が移ったともいえる訳です。

 

ところで、高階家と伊勢神宮の関係ですが。

これは次のお話に致しましょう。

 

 


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