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2016年10月20日

伊勢神宮と高階氏

随分間が開いてしまいました。
高階家と伊勢神宮の関係をお約束しておりました。
今回は、伊勢物語に端を発する伊勢神宮に障りあるところを主点に。
高階という一族の成り立ちと2回に分けてみたいと思います。

伊勢物語は「昔男ありけり」で始まる、在原業平とおぼしき貴公子を主人公とする、歌物語であり、作者は紫式部の昔よりさまざまに取沙汰されてきました。

なぜ伊勢となったかが、伊勢神宮の斎宮との第六九回のエピソードに起因しているという説もあり、本稿のテーマでございます。

主人公は恬子内親王(848?~913)。
文徳天皇を父に、紀静子を母に持ち同母兄弟には惟喬親王、惟条親王、述子内親王、珍子内親王。異母兄清和天皇即位に際し、卜定にて斎宮に選ばれ十三歳(頃)に伊勢へ向かったのが861年でございます。

もう一方の主人公、在原家の五男坊で、小野小町などと並び藤原定家に六歌仙と讃えられた、略して在五中将(右近衛権中将)とも呼ばれる、平安初期の大プレイボーイであります。

伊勢物語の中ではホンマかいなくらいの勢いで、手当たり次第。お江戸にも業平橋の地名を残しておりますが、実在の業平は薬子の乱に関わり割を食ってしまった、平城天皇の第2子である阿保親王の5男坊であり、生まれた翌年(826年)に次男仲平、鍋で有名な三男行平、守平(四男)と共にまとめて在原朝臣を賜姓され臣下となっています。

嵯峨天皇の子仁明天皇の晩年に左近衛将監、蔵人として仕え849年に24歳にして無位から、従五位下に直叙されますが、文徳天皇時代は鳴かず飛ばずでどうも官にも就いていなかったようです。
ところが、清和天皇に譲位された後は862年37歳にして、従五位上に昇位し左兵衛権佐(今でいえば大佐に近い中佐)に任官し、そのまま左近衛権少将、右近衛権中将と武官としてトントン拍子に出世しています。

そしてもう一人の主役が、高階峯緒。藤原4兄弟に一族もろとも自害させられた、左大臣長屋王の玄孫で峰緒王。843年に高階真人姓を賜り、臣籍降下。その後従五位下に叙任し下野介、伊予守、肥後守等の地方官、所謂受領を歴任しています。
その後左中弁から大蔵大輔といった京官になり、従四位下に昇進し、恬子内親王が斎王になった861年5月に伊勢権守に任官しており、斎宮守も兼任したようです。

背後関係と人間関係を整理します。
事件のあった時代は清和天皇の御世。藤原氏では北家が次第に台頭してきています。
文徳天皇が858年に崩御され、清和天皇が8歳で即位。外祖父である藤原良房が太政大臣として後見。
業平の正妻は紀有常の娘、名は伝わっておりません。紀有常は恬子内親王の母紀静子の兄弟であり、業平の妻とは従妹同士となります。
紀氏は古代有力貴族であり、蘇我氏、葛城氏、平群氏などと同様に武内の宿禰の子孫として、大化以前の朝廷を形造った一族ですが、この時期は藤原氏にほぼその機能を奪われています。
161020_1020~01恬子内親王の同母兄、惟喬親王が文徳天皇の第一子で、天皇に可愛がられながらも、即位できなかったのも、4男惟仁親王の母が右大臣藤原良房の娘、明子であり生後8か月という前例に無い年齢での立太子だったことが、この時代には紀名虎(静子と有常の父)よりも良房の方が相当有力であったのでしょう。

事件の発端は、狩の使者として業平が伊勢に下向するところから始まります。貞観5年(863年)と推定されます。恬子内親王は斎宮下向後2年目満年齢で15歳。
業平君は左近衛権少将で38歳の男盛りです。
恬子内親王には、母静子から「狩り使いが行くけど、いつもの使いよりも労わってあげてね」ってな文が届きます。まあ静子からすれば、姪っ子の旦那だから宜しく。みたいな感じだったのでしょうか。

親に言われて、結構頑張ってお世話をするわけです。具体的には斎宮というのは、相当大きな組織であり、官人はどうも男女合わせて500人にも及ぶお役所であったらしい。そこのトップである斎宮さまが、個人的にどういったお世話をしてあげたのは、ちょっと想像に余ります。

が、この38歳のプレイボーイ業平君、自分の娘くらいの、しかも妻の従弟であり、絶対的な処女性を求められる斎宮に懸想してしまうんですね。
この時代から後の光源氏の時代を含めて、妻問婚が基本で和泉式部に例を取るまでもなく、現代から較べても割合にその辺りは自由闊達というイメージはありますが、神に仕える巫女さんしかも伊勢神宮の斎宮の内親王さんはいくらなんでもまずいと思うのは、さえない初老の私のやっかみでありましょうか。

伊勢物語では、寝物語だけで、翌日は狩りの使いが来ていると耳にした、伊勢の守が宴会を催し業平が忍べずに、夜が明け王とする頃恬子内親王が盃の皿に歌を記して渡します。
「かち人の渡れど濡れぬえにしあれば」
業平がその皿に下の句 「又あふ坂の関はこえなむ」 としるし、夜が明けて尾張の国に向かった。更に「斎宮は水の尾の御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬の親王(みこ)の妹。
と記されて、終わっております。

伊勢物語では、なまめかしくせつないシーンはてんこ盛りですが、行為には至っていないことと、高階峯緒とみられる伊勢の守の強引な宴による横槍が書かれています。
つまり、証拠隠滅の匂いが芬芬なのは、作者が紀氏に連なる紀貫之という説にも繋がります。

しかし、世間の噂では、このときに恬子内親王が身ごもり、翌年に男子が生まれたことと、伊勢権守の高階峯緒がその子を自身の子息茂範の養子として育てたというのが定説となっております。
地方官主体の高階家ではありますが、この子師尚は父(?)業平同様の従4位右近衛中将にまで昇っております。

これをもって、一条天皇の時代に高階の一族に連なる親王は、伊勢神宮に憚りがあるとて、道長の娘彰子の子後一条天皇の即位の因縁となるのであります。


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