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2017年02月28日

東近江散歩

暦の上では立春を過ぎ、春一番も観測しながらまだ梅の香を乗せてくる風は肌寒く。春のコートにはちょっと早い旧暦如月のはじめでございます。

 

このところ、兄弟会社(規模はわが社よりは数倍以上に大きいのですが)であります古河ASさんに伺う頻度が増えております。

同社は1946年といいますから、戦後すぐに滋賀県犬上郡豊郷村大字八目に、古河電気工業の協力会社として発足し、1950年に近江電線株式会社と改組されました。

 

紆余曲折を経て、犬上郡甲良町尼子の現本社工場を1985設立し、1966年に本社機能を移転し、2007年に現社名に改めて現在に至っております。最寄駅は近江電鉄尼子駅。こちらは徒歩数分で、旧中山道は北西に数十メートルの距離で、国道8号線を通り越して更に一本道を進むと、左にJR東海道本線の河瀬駅となります。

 

さて、同社の所在地犬上郡についてです。

琵琶湖の東に位置する旧国名近江の犬上郡は現彦根市の大部分、豊郷町の一部と、甲良町、多賀町の全域となり、山地の多賀町と芹川を挟んで南側の甲良、豊郷は湖東平野の一部をなしています。

遺跡は古墳時代、飛鳥時代の集落が発掘されています。古代には此の辺り大和の有力豪族である葛城氏の支配地であったようで、桂城神社の名や尼子の甲良神社の祭神が武内の宿禰であることから推測されます。

 

その後一帯を領地化したのが犬上氏。横溝正史の小説は犬神家でこちらとは関係ありません。

小学校で習った、遣唐使で有名な犬上御田鍬が、この一族となります。第8回の遣隋使と第一回の遣唐使であります。手塚治虫さんの代表作「火の鳥・太陽編」はこの犬上君をモデルとしています。

 

犬上の君(犬上郡の県主)は、日本書紀ではかの日本武尊と最初の妻である両道入姫(ふたぢのいりひめ)の皇女との間に生まれた、稲依別王の子孫とされており、郡名もこの一族に由来しています。

しかし実際には天日槍(あめのひぼこ)とともに百済から渡来し、この辺りに入植して開拓した帰化人であるとも伝えられており、こちらの伝承が事実に近いと思います。

豊郷町にある犬上神社、多賀町の大滝神社、多賀大社はおそらくこの犬上氏の祖先を祀っていると思われます。

 

大滝神社と、犬上神社には類似の伝説が残っており、犬上氏の祖先が連れていた犬が激しく吠えかかり、怒った飼い主が首を刎ねたところ、首は隠れていた大蛇の喉を食い破ったというもの。いずれも犬飼としての犬上氏を現す逸話だと推定されます。

 

犬上氏は前述の犬上御田鍬の如く、推古~天智期には中央貴族として遣唐使などにも活躍し、白村江の戦いでは戦狼を船で運んだとの記述もあり、有力古代豪族だったようですが、壬申の乱以降に、次第に振るわなくなります。まあ、他の古代豪族も結局不比等以降の藤原氏の台頭の前に萎んでしまいますので、同様ですが。

 

この地方に残った犬上一族は多賀神社の神主として河瀬氏を名乗り、戦国時代にそこそこの勢力化しています。河瀬はJRの駅にその名を残してもいます。

 

中世には多賀神社、広隆寺、興福寺、東大寺などの荘園となり、南北朝時代には、太平記にてバサラ大名で御馴染み、佐々木道誉(京極高氏)が甲良荘に勝楽寺城を築き本拠地としています。

応仁の乱の頃には京極高数が下之郷城を築城し、その次男多賀高忠が活躍。

 

住所の尼子でピンときた方もいらっしゃるとは思いますが、尼子氏は京極氏の一族でございます。尼子詮久の時代に次男持久が出雲に下向して、出雲守護代から戦国大名化し、大内氏、毛利氏と中国地方の覇権を争います。最終的には滅亡しますが、一族の一人で「我に七難八苦を与えたまえ」と新月に祈る武士、山中鹿之助が最後まで毛利氏に対抗。その子孫は鴻池氏として、江戸期の豪商として残ります。

 

戦国期にこの地の出身者で高名なのは、現甲良町在士である犬上郡藤堂村の土豪藤堂虎高の二男として生まれ、浅井長政の足軽を振り出しに、伊勢、伊賀2国の太守として徳川家康に外様大名としては最大の処遇を得た、藤堂高虎であります。

因みに私事ではありますが、尼崎のバーでたまに一緒になり楽しい時間を過ごさせて戴く藤堂さんは、この高虎直系の子孫の奥様です。

 

豊臣時代は佐和山の石田治部少輔光成、江戸時代は当然井伊家の彦根藩領として明治を迎えました。

 

近江といえば近江商人ですが、本場は近江八幡等のもう少し南の方でしょうか。

ローカル線の近江鉄道で彦根から尼子に向かうと、途中で多賀大社前行きと分岐する駅が高宮(彦根市高宮)ですが、この地は草津追分で東海道と別れて4番目、お江戸日本橋からは63番目の中山道の宿場となります。当然皇女和宮下向の際も通っています。

多賀大社の一の鳥居でも有名な、この地の名産が高宮布と称される麻織物。

 

彦根藩から将軍への献上品でもありますが、近江商人を介して日本各地に流通しております。

領主井伊直弼が攘夷派を弾圧していた頃の安政5年に、犬上郡甲良郷八目村(現豊郷町八目)という奇しくも近江電線発祥の地に、近江麻布類の持ち下り商を開業し、堺や紀州に行商を行ったのが、伊藤忠兵衛。即ち現伊藤忠商事、丸紅の創業者であります。

元々の生家の屋号が紅長(べんちょう)で丸紅の社名はこちらからの発祥のようです。

 

更に尼子周辺の旧跡を紹介致しますと、古い方では野洲市の御国神社と並んで近江三宮の多賀大社がございます。大社と呼びだしたのは当然明治になってからですが。

因みに、近江の一之宮は大津の建部神社(祭神は日本武尊であり、犬上氏と同じ祖先伝説を持つ軍事集団建部氏の祖社)、二宮は日吉神社(言わずと知れた比叡山の鎮守神)で、全てが式内社というのは、さすが先進地帯の近江ですな。

 

さてこの多賀大社。祭神は伊邪那岐命・伊邪那美として有名ではありますが、どうも違う雰囲気が。

もともと伊弉諾祭神の根拠は、古事記写本のうちの真福寺本に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」の記述があり、近江の多賀と普通に解釈してきました。

しかし、伊弉諾の本拠地は古事記国生みで最初に生んだ淡路であり、日本書紀には明確に国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島の地に幽宮(かくりみや、終焉の御住居)を構えたとあり、おそらく前者は写し間違いと思われます。

藤原忠平らによって延長5年(927年)に編まれた『延喜式神名帳』では、当社は「近江国犬上郡 多何神社二座」と記載され、小社に列され「二座」とはありますが、伊邪那岐命・伊邪那美命とされていたわけではありません。恐らく近辺の犬上神社、甲良神社ともども犬上氏の祖神ではないかと思われます。

最後に国宝彦根城。この城は大阪の秀頼を討滅させるために、井伊家の重臣たちに命じて物色させた家康がこの地に決めたことを、大いに賛同したところから、築城が始まっています。

時間的な問題もあり、近辺の石田治部少の居城であった佐和山城や、京極氏の大津城、安土近辺の六角氏の本拠であった観音寺城などの資材を使用。特に彦根駅を挟んで至近の佐和山城などは根こそぎ持ち出されており、佐和山は文字通りただの山になってしまって現状となっています。最近は山麓に「佐和山城跡」の看板が出ましたが、以前は全く見分けはできませんでした。

資材もそうですが、この城は公儀普請とし、7か国12大名に手伝わせており、徳川家の先鋒たる井伊家の城として西国三十数か国への睨みを担って築城された訳ですが、司馬遼太郎氏によれば、武威の象徴よりも湖畔にあて雅さを感じさせる佇まいと表現されています。

確かに、ここ最近は仕事で訪れる時間は取れないものの、城周りを歩くとその優雅さは現存十二天守の城のうちでも、好みは別として姫路と双璧だとは思います。

明治になって太政官令により多くの城がこぼたれたなかで、明治大帝がこの城をご覧になり、その典雅さに感じて是非残せとのことで残されたとの伝承は、あながち間違いではない気分になります。

天守は大津城を移築したと伝えられていますが、この城の素晴らしさは藩政時代の城郭をそっくりそのまま現存しているということだと思います。

1月末に十数年ぶりという大雪(彦根で60センチの積雪を記録)に、尼子の駅で3時間半も電車を待つという経験を致しました。近江牛も高くて出張で口に入ることはありません。好物の鮒ずしも高いしねぇ。多賀大社は未だにお詣りに行けてません。

近江という国は近畿の水がめ琵琶湖の周りに多種多様の文化を蓄えた、魅力的な土地柄で、日本の古代から中世の良質の遺産が数多く残されています。湖東の彦根をちょっと摘まんでみても、これだけの掘り出し物が。ゆっくりと時間を掛けて周遊してみたい、定年後の楽しみにとっておきますか(笑) 写真は1月の近江鉄道と遠景の佐和山、そして彦根城の雪景色です。

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