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2017年05月15日

旧国名② 天智帝から室町末期まで国守は機能していた

律令制度では国と郡が地方行政区となっておりました。律令以前の国造、県主などの地方豪族分権から、中央から派遣される守、介、掾、目(さかん)の地方官により、税よりも徴兵を主眼に機能したようです。地方豪族は郡司として起用され、組み込まれていきます。

 

天智天皇の半島政策の失敗(百済の滅亡と新羅・唐との対立:広開土王碑)により、半島からの撤退後大陸からの侵攻を極度に恐れた大和政権(天智帝)は近江京への遷都。さらに防人制度、西日本各地の築城などに顕著な政策の一環として、地方からの徴兵を国⇒郡という支配にて整備したわけです。

 

大陸からの脅威が薄れるとともに、これらの政策はコストが掛りすぎることから、地方行政は受領といわれる中級貴族に丸投げの制度に変化し、これら受領階級は国守になり地方民を骨の髄までしゃぶりつくし、蓄財に励むようになります。本ブログで以前紹介した高階氏も、受領階級として蓄財し、紫式部の娘(藤原 賢子)を妻とした成章が欲の大弐(大宰大弐)として有名です。

 

受領制度と並行して有力貴族や、寺社に土地人民を仮託するのが荘園制度であります。

この双方を武力で支えたのが、いまでいうやくざや組織的な警備会社で、そこから発展したのが武士階級となり、次第に集散を繰り返し強力になって参ります。桓武平氏や清和源氏と呼ばれる連中は国守や介として赴任し、積極的にこれらの武士を糾合していき、次の時代に主役となった訳です。

 

鎌倉期、室町期を通じてこの律令制度は武家による守護と並立しています。守護はどちらかといえば、警察・司法という役割のみを果たしていたきらいがございます。

戦国時代に至り、戦国大名という完全な地方政権の独立を経て、豊臣秀吉による検地・刀狩の延長上で保守的な徳川幕府に至り、主要都市(大阪・京・堺・伊勢山田等)と幕府直轄領で全国の1/4、その他を大名領とした統治となる訳です。

この制度の下で、多分に名目的なものですが、律令国守が官として大名、旗本に与えられるようになりました。

更に続きます

 


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