» 能登
2014年04月21日

能登

小松空港ビルから、バス乗り場に出るとスーツだけでは結構寒く、コートを羽織りました。

花のすっかり散ってしまった千葉に比べ、北陸の桜は満開です。

2日目は金沢から能登半島に、無料化となった「のと山里海道」を北進。能登中核工業団地にある

顧客でもあり、従妹会社でもある古河電工産業電線㈱様の北陸工場を目指します。

お隣にございました、アクセスケーブル様は残念ながら3月いっぱいで閉鎖となり、お伺いした時には撤去工事中でした。

春霞に水平線が霞む日本海はひねもすたり、のたりとしてみたい、春の渚に打ち寄せる波音も優しく...

今回のテーマは能登

左の親指第一関節から、クイッと曲げた様な姿の能登半島のほぼ全部、元は越の国であります。

養老2年(718年)越前から羽咋、能登、鳳至、珠州の4郡を分立し成立しました。同じ年に安房国が上総から分立しており

旧国名では、最も後に成立した国と言えます。 時代的には元正帝の時代、藤原不比等が養老律令を編成しその2年後、亡くなります。

丁度、日本書紀が成立し古代天皇制(律令制の確立)が天武帝以来、徐々に確立していく時代ですね。

ところが、天平13年(741年)に一旦越中に併合され、更に天平宝字元年(747年)に再度分立されて以降は定着しています。

古代(平安中期位まで?)は実際に国守が赴任しておりまして、成立頃の国主としては平郡虫麻呂(765年)その後「和名類聚抄:平安期の辞書」正編纂者として有名な源順(みなもとのしたごう)が986年に赴任しています。

武家の時代になると、実際には赴任せず官位のみとなりますが、最も有名というか、個人的な好みで言えば大納言平知盛(清盛の三男)と並んで武家としての平家最後の華、能登守平教経です。これは次回熱く語ります(笑)

奥能登には、時国家という文化財がございます、学生時代に一度、下時国家には参りましたが江戸時代の藩主加賀家の当主でも入れないという部屋があったり、欄間には平家の揚羽蝶の紋所が金具で施されたりと、見事な造りであったと記憶しております。

この時国家は「平家にあらんずば人にあらず」との賜った、大納言平時忠が壇ノ浦で平家没落後配流され、その後時国が興した家であり、代々続いた建物です。大納言時忠は長女滋子を後白河帝に嫁がせ「建春門院」高倉天皇の外祖父tpなり、妹の時子は清盛に嫁がせ建礼門院徳子や知盛などの母となりました。徳子は高倉帝との間に安徳天皇を産み、壇ノ浦で入水しますが、義経に助けられた後。京都大原の寂光院にて余生を過ごす事になります。さて、能登守で有名なところは、ずっと時代は下がり、江戸は亨保の頃、大岡政談で有名な大岡忠相。時代劇の花形、大岡越前守であります。忠相は、山田奉行(伊勢山田の為政官)就任に際して、能登守に任官しますが、その後八代将軍吉宗に抜擢され江戸北町奉行に。その際中町奉行であった坪内定鑑の名乗りが、同じく能登守であったため越前守となったそうです。