» 安土城と佐々木姓の由来其の2
2014年05月14日

安土城と佐々木姓の由来其の2

☆前回の続きです☆

信長の数々の事績のなかで、楽市・楽座による商業流通も有名ですが、政策として斬新なこの制度も六角氏によりこの地で興ったとも。信長はその因縁からも、六角氏には近しい気分を持っていたとも想像するのですが、信長の誘いには乗らずに、本来は敵であったにも関わらず先に誘われた三好三人衆に肩入れし、六角氏は五個荘を囲む観音寺城、和田山城、箕作城にて信長軍を迎え撃ちます。本陣の観音寺城に当主義治、父義賢、弟義定と精鋭の馬廻り衆1千騎を、和田山城に田中治部大輔らを大将に主力6千を、箕作城に吉田出雲守らを武者頭に3千をそれぞれ配置します。
戦は箕作城に羽柴秀吉が攻め入り、善戦しますが夜襲により落城。それを知った和田山の将兵は戦わずに逃亡。和田山城もそれに落胆し、防備に問題があったことも悟り、六角氏得意の甲賀でのゲリラ戦を標榜し落ち延び、以降再び戻ることなく、佐々木本流の六角氏は消え去ります。

 

さて、沙沙貴神社まで駅からは徒歩10分。

沙沙貴とはもともと神代に少彦名神を祀ったことに始まり、古代に沙沙貴山君がその祖先とされる大彦命を祭り、後にこの地に土着した宇多源氏によって宇多天皇とその皇子であり宇多源氏の祖である敦實親王が祭られ
それ以降佐々木源氏の氏神とされ、子々孫々が篤く崇敬していたとされます。佐々木氏は宇多天皇の玄孫である源成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に下向し、その地に土着した孫の経方が佐々木を名乗ったことから始まるとされていますが、源平合戦の時代、平治の乱での源義朝の討死で、相模まで落ち延びてきた佐々木氏が、頼朝に従属しその挙兵に最初から従ったのが、隆盛の元であります。

木曽義仲との決戦で、いわゆる宇治川の先陣争いを梶原景時と名馬「生月」と行った高綱。嫡流でなく京極氏ではありますが、ばさら大名として有名な佐々木高氏(道誉)もこの一族であります。その一族としては、現在の大河ドラマの主人公である黒田管兵衛や、山中鹿之助を含み、近隣の尼子その出自がある山陰の戦国大名尼子氏。角倉了以や今井宗久。下って明治の乃木希輔大将なども佐々木氏であるそうです。

全国の佐々木さんが結構お参りに見えるこの神社。山門が非常に美しく、境内外の「なんじゃもんじゃの木」が丁度花をつけ始めた時期でもあり、ちょいと古代から戦国にかけての風情に浸った2時間でありました。