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2018年03月21日

八幡大菩薩(八幡さま3)

八幡さんは唯一の天皇が祭神の神社ということで、皇祖神として神格では天照大神に次ぐ皇室の守護神とされ、宇佐神宮や石清水八幡宮は伊勢神宮に次ぐ、第二の宗廟として、崇敬されていきます。

基本的な八幡さんの祭神は誉田別尊(応神天応)を主神として、比売神(宗像三女神)、応神天応の母である神功皇后を合せて、八幡三神として祀られます。その他に父仲哀天皇、武内宿禰、玉依姫が祀られているものもそれなりにあるようです。
元々の呼び名は「やはた」であり、幡(はた)は神の依り代としての旗と同義語で、八つ(数多く)の旗を示し、神功皇后の三韓征伐に際する、往復路の対馬にて祭壇に八つの旗を祀ったとされ、更に誉田別尊誕生の折には家屋の上に八つの旗がひらめいたとされ、語源とされております。

宇佐神宮は道鏡事件での和気清麻呂による託宣で歴史的には有名ですが、それ以前から皇室ゆかりの神社であり、託宣を良くする神様で有名ではあったのでしょう。

八幡神社は全国に44,000とも言われ、一の宮としてだけでも、事任八幡宮(遠江)、筥崎宮(筑前)、千栗八幡宮(肥前)、上津八幡宮(対馬)、宇佐神宮(豊前)、柞原八幡宮(豊後)、鹿児島神社(大隅)、新田神社(薩摩)の8社もの数が挙げられ、当然日本では一番です。
九州の9国のうち6国がそうだというのも、興味深いことです。

三大八幡とは、宇佐、石清水に筥崎宮もしくは、鎌倉の鶴岡八幡宮を指しますし、その他にも江戸三大祭りで有名な深川の富岡八幡宮や、地名の由来となっている郡上八幡町や、市原市八幡(飯香岡八幡宮)などが挙げられるなど、稲荷社に次いで多く生活に密着しております。

さてもともと「やはた」と呼ばれていた、のがはちまんとなったのは、大菩薩の神号が正式に宇佐に朝廷より贈られて以降となります。
経緯はもともと宇佐には東大寺大仏建立への協力等の下地があったことと、天平時代の朝廷の仏教政策として、民衆への布教を一義とする路線と、国家鎮護優先路線の対立があり、宇佐の当時の宮司が前者の立場に立って、仏教守護神として八幡宮の立場を位置づけた結果として、宝亀8年5月29日(777年)に八幡神が出家し、天応元年(781)に八幡大菩薩の号が正式に送られた訳です。

しかし実態としては、称徳天皇(46代孝謙帝重祚し48代)が770年に薨去し、その異母妹井上内親王の夫で、光仁天皇(49代、天智天皇の孫)が即位。しかしその直後に井上内親王は皇后を廃位され謎の死を遂げました。
その結果、天武帝直系の聖武天皇(45代:孝謙の父)の血統が途絶え、天災が頻発したことを長屋王を加えた天武天皇直系一族の祟りと考え、仏教に深く帰依していた聖武天皇が没後に八幡神と結合したと当時の朝廷は捉えていたことから、八幡神に大菩薩号を与えて祟りを防ごうとしたというのが通説です。

時代は下り、平安も中期以降に桓武平氏と清和源氏に代表される、武家の時代になって参ります。平将門、藤原住友による承平天慶の乱では、石清水天満宮で調伏が祈願され、平定後には国家鎮護神として、崇められることになりますが、将門自体も上野国庁にて、八幡大菩薩により「新皇」の地位を保証されたとの、将門記の記述がございます。
いずれにせよ、朝廷の体系としての天照大神と異なる武家社会の、新たなる神体系として利用されたのが、大菩薩として習合した八幡神であり武家が奉じた理由であったのでしょう。

源頼義は河内国壺井に勧請して壺井八幡宮を河内源氏の氏神とし、その子義家は石清水八幡宮で元服し、自らを八幡太郎義家と称しました。
頼朝も鎌倉幕府開府後に、鶴岡八幡宮を勧請していますし、代々の足利将軍も厚く帰依しております。

明治の廃仏毀釈(神仏分離令)により、僧形八幡は廃却され大菩薩号が明治政府により禁止され、全国の八幡宮は神社へと改組されました。
とは言いながら、戦中は以前本ブログでも紹介致しました、海軍の一式陸攻部隊である、野中五郎さん指揮下では南無八幡大菩薩の大幟を掲げたとの伝説もあります。

実は弊社の所在地である市原市の住所も市原市八幡海岸通りであり、最寄駅である八幡宿はそのご近所の飯香岡八幡宮(旧県社。石清水八幡宮の市原別宮)に由来致します。

次回は御祖父さんのヤマトタケルを祀った神社についてを予定しております。


2018年02月02日

年内節分と雪の華

明日は節分で、当然明後日は立春でございます。
スーパーに加え、ブルーやら、レッドと形容された1月晦日の満月は、旧暦では12月15日の望月となります。皆既月食でもございましたね。

従って今年の節分は、本ブログでも11ページの、2015年2月26日にて、不思議な感覚と紹介いたしました、所謂正月前の年内節分となります。
基本的に明治6年に正式にグレゴリオ暦が採用される前の、太陰太陽暦では19年に7回という頻度で閏月を加えるために、節分・立春を年末に迎えることがあるわけです。

立春は所謂24節気の一つであり、始まりとも言われています。
元々が太陰暦では季節の変化が捉えられずに、農業のようなある一定の温度やその他の気候条件が指標となる作業には使えなかったことから、太陽運行を元に作成されたのが、24節気であります。

以前のブログにも書いたように、おそらく黄河中流域の山東省辺りの季節感で、諸説ありますが、殷・周時代には1年の始まりが冬至であったことを考慮すると、既に一部は成立しており、太陽運行と農事を徐々に取り入れて、戦国時代(中国の春秋戦国)に徐々に今の言葉と、形になったように思われます。
日本には恐らく百済経由での飛鳥時代でしょうか。

元々は季節の一巡りを、太陽の運行(天文)の観測に併せて、冬至・夏至(二至)。更に春分と秋分(二分)が誕生し、その中間を四季の変わり目という意味で、立つと称して、立春、立夏、立秋、立冬(四立)としました。
つまり、冬至と春分の中間点として春の最初の節気(おそらく正月のイメージ)として、立春と名付け、それが各四季に冠せられたようです。
この八節が、天文由来の重要な節気であり、その他の中気などを含めて前漢の准南子には既に全ての記述があり、戦国時代を通じてこの辺りで成立したのでしょう。

上記の八節以外は、多少日本との温度差があるのは、大陸内部と海洋温帯気候の日本との違いによるものが多いと、うっすらと思っておりましたが、最近2008年と10年ほど前の気象学会の石原浩司氏の文章で、黄河中・下流域の付平均気温と、ほぼ同緯度の水戸及び、寒暖の差のある宮崎、石巻との比較を主題材にしたものを読んで、納得という感じでした。

黄河中・下流域の4都市鄭州、西安、運城、安陽では温度、分布共に大きな違いは無く、大暑に最高温度(1971~2000年平均値)に達し、大寒に最低気温に至りました。
対するに水戸、石巻では立秋(8/7)から処暑(8/23)にほぼ横ばいで最高気温となり、大寒(1/21)頃に最低気温となっています。安陽などと水戸との最高、最低絶対温度の差は最高温度で5度高く、最低温度で4度程度低くなっています。

他のイメージでは、芒種即ち種まき時季に関しては、日本の寒冷地でも遅すぎる感は否めないですね。

さて、節分。雑節の一つで、各季節の始まりの日である(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のことで、元々の意味は「季節を分ける」ことから。江戸時代以降は特に立春の前日を指すことが主流となりました。

昨今恵方巻きなる習慣が一般的になってきていますが、これは元々江戸末期から明治にかけて大坂船場で商売繁盛などを祈願して、発祥したとの通説がありますが、これは一旦廃れ。昭和50年代に大阪海苔問屋共同組合と、すし屋関連団体の連携で、復活させて販売促進運動をはじめ、1977年頃から関西で広まったようです。

昭和60年頃に半年ほど芦屋の会社の寮にお世話になっていた時に、近くのダイエーの売り場に山盛りの海苔巻を見て、読み物では知っていた(小林信彦氏の唐獅子株式会社シリーズ)けれど、本物のその勢いをみて驚いた記憶があります。

その数年後の平成にいたり、コンビニや大手スーパーがイベント食として売りはじめ、今日の盛況となったようです。
いわばバレンタインデーのチョコレート同様の、業界の陰謀ですな。
海苔巻は子供のころから、運動会や遠足のお弁当として普通に好きです。作るとなると結構手が掛る食物であることは間違いなく。従って特別な日に食することには全く嫌も応も無いのですが、太巻き1本をいっぺんにといわれるのは、少々苦痛かもしれません。

さて、今週日光方面に参りまして、朝の日光道の桜やケヤキの枝に夜半に降り積もった雪が、まるで満開の花のようでした。季節の便りと致します。
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2018年01月08日

一般参賀

謹んで新年のお祝辞を申し上げます。
年来のご厚情を感謝申し上げますと同時に、本年も宜しくお引き立てのほどお願い致します。

大変恐縮ながら、本ホームページでもご案内の如く、弊社は本日がスタートでございます。

皆様、お正月は如何お過ごしでございましたでしょうか。
帰省、ご親族のお迎え、海外旅行、更にはゆっくりとお休みと、さまざまでございましょうね。

わたくしは、久方ぶりに皇居の一般参賀に参加して参りました。
そう、12万7千人のうちの一人でございます。
実は2回目となりますが、随分前に家内と埼玉に住むその叔父叔母と、都内某所の七福神めぐりの帰りに、皇居外苑の人だかりを見て参加しており、手荷物検査などは同様ですが、特に並ぶ必要もなく最後のお出ましに間に合ったという記憶がございます。

今上天皇陛下として最後の2回ということで、それなりの人出は想定しており、11時の3回目に、少なくとも11時50分の午前中最後のおでましにはと期待して、10時半に東京駅丸の内南口で叔父叔母と待ち合わせをし、人波に加わってゆっくりと皇居前広場に向かいました。

東京駅、丸の内側広場については、各報道でなされております通り、広々とした佇まいに冬の日差しが穏やかな気分を醸します。
建設に当たり皇居内部を見下ろすと、賛否かまびすしかった東京海上ビル前には、所謂情宣車がずらりと並び、大きな音を出しております。

だんだんと人が増え、日比谷通り(国道1号)を横切ると、既に何列かに分かれた大勢の人の列が、その場に留まっています。警察官の誘導するままに進み、内堀通り前で一旦停止したのがほぼ11時。
暫く停滞しているうちに左側の歩道に待機していた列が進み、暫くして今度は右側のロープの向こうが。やっと我々の列も10名横一列がしずしずと動きだし、手荷物検査と身体検査。
馬場先門経由の人列と合流し、皇居正門に入り二重橋から伏見櫓を過ぎ、参賀会場の直前で停止。

どうも参賀会場には3万人がおり、それ以上の入場は危険ということで留められたらしく、そのうち目の前に見える会場からはどよめきと、日の丸小旗を振る紙音が。11時50分の午前中最後のお出ましのようで、やがて静まり。3万人が会場から退出する時間もそれなりに掛り、会場のバルコニー前に到達したのが12時半。

結局次の13時半のお出ましまで、そのままで立ち尽くすこと1時間。わたくしの視界前方のなかでさえ4名が体調を悪くして抱え出されました。
今上陛下の通りの良いお声と、雅子妃殿下のロイヤルブルーの御召し物の艶やかさに、万歳の声がかしこで挙がり、それらしい雰囲気は満点ではございましたが、幼年者や高齢者には結構きつい時間という感は否めません。
そんなことは判っていても参るという覚悟は必要かもしれませんね(笑)

人が多いというのは覚悟ではありましたが、想定を大きく上回っておりまして東京駅の丸の内~八重洲自由通路2階のレストラン街で昼食にありつけたのは2時半過ぎ。冷たいビールが美味しく、帰りの直通バスではぐっすりでした。

今回の参賀では人出の多さと、外国からの人が多いのが目立ちました。金髪で背が高い北欧系の方々は群衆の中でも目立ちますが、ラテン系の方々は結構少人数の団体で賑やかに。
中国系の方々は多分大多数が台湾からの方々のような気がします。
何かとマイナス面で話題になる半島の方々は、多分いらしてはいないと確信しております(笑)

平成の一般参賀は来年もう一度ありますが、更に人数が増えるとお出ましの回数が今回同様では、あの会場では少々厳しいのではと案じてしまいます。

とはあれ、参加できるのは電車で1時間程度で参れる地の利。関東に住んでいることのありがたさは感じます。同時に地震の多さには辟易してしまいますが(笑)


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