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2017年12月22日

コートについて

冬至を過ぎ今年も残るところ10日余りとなりました。
例年に比べ今年は寒さが厳しいような気が致します。10月末くらいから年末のご挨拶を、来年のカレンダーをお配りしながら手分けして回っております。
昨年この時期はボア無のトレンチコートで十分暖かかったと記憶していますが、既にこの時期にオーバーコートであるダッフルにマフラーになっています。

中学校まで北海道で日常暮らしておりましたので、防寒着という意味でのオーバーコートや、準スキーウエアであるアノラックには随分お世話になりました。

ところが、学生時代を過ごした広島県では十分寒いにも関わらず、コートを身に着けている人がいないというカルチャーショックを受けたのは、もう50年ほど前。
北海道で冬休みを過ごし、マクレガー(ゴルフウエアのブランド品)のグレーのダッフルで学生寮に帰ってきたときには、結構みんなに馬鹿にされましたが、最近は中国地方でも普通にオーバーコートを着ているように見受けられます。

巷に目にするこれらのコート、特に最近は男女の境があやふやになってきて、マニッシュなトレンチコートやいかにもビジネスっぽいステンカラーコートをまとう、若い女性が目につくこの頃です。
更にスカートにレザーのライダースジャケットとなると、妙な危うさを感じてしまいます。

上記のコートって、元々は防寒着や防水着として軍服に採用されたものが主体ではあります。
有名なのは塹壕を意味するトレンチから派生したトレンチコートで、第一次大戦で英国陸軍が採用し、泥濘戦で威力を発揮した防水コートであります。
1930年代の映画でハンフリー・ボガードなどが身に着けたことで、ハードボイルドなタフガイのイメージが、このコートには似合うようになりました。

かくいう私も就職したての1970年初頭頃に、JUNブランドで濃いグリーンのひざ下までのロングトレンチを愛用していました。

ピーコートやダッフルは海軍に採用された、元々が北欧などの漁師が愛用していた防寒着です。
特にダッフルは手袋をはめていても、前ボタンに相当するトゲルと称される流木で作られた、留め具とループにより着脱ができ、前合せも左右を簡単に入れ替えることが可能。

ベルギーの都市ディフェル(英語読みでダッフル)に起源をもち、第2次大戦にてロイヤルネービーに使用され、戦後その余剰品が市場に出回り一般化したようです。

英国海軍が19世紀末から艦上用として、更にフランスのブルターニュ地方で漁師たちが愛用したのがピーコート。
オランダ語でラシャを意味する pii jekkerが語源でドイツ語ではCabaと呼ばれていうようです。ダッフルよりも多少短く、これも同様に風向きにより前合わせを簡単に左右変更できるのは、艦上作業を前提にデザインされているからでしょう。

ダッフルとピーコートは前あわせがどちらでもなることから、日本の中高生の制服としてもお馴染みになっています。その分多少幼く感じる向きがあるのかもしれません。

さてスーツに良く合うといえば、チェスターコートが挙げられます。正式にはチェスターフィールドコートと云い、同名の伯爵が初めて着用したとされる、フォーマルなコートです。
近年はダークカラーのカシミヤ地のものが主流となり、かの007ことジェームス・ボンド氏が映画で着用し、それにそそられて私も10年来愛用しています(笑)

さて一般的な形のコートについて、調べてみましたというか、実は全て私のコレクションとなります。更に素材によりレザーや羊毛、更に最近はダウンまで日本のビジネス街の男女は実にお洒落なウインターファッションを楽しんでいます。本人のみならず、周りの眼も楽しませてくれているのは間違いありませんね。

本年一年大変ご愛顧を賜り、有難うございました。
年明けは1月8日より営業を再開いたします。少々早うございますが、皆様良いお年をお迎えください。
来年も宜しくご贔屓のほどお願い申し上げます。


2017年10月03日

戦争は・・・

さて、中秋の名月の前日でございます。勤労感謝の日となった新嘗祭は、実りを寿ぐには少々遅い感がございます。
その代わりというか、初秋の望月の夜に枯れ色の美しい芒を備え、刈り取った稲を干すまだ蒸せるような香りに、豊作を感謝しほっと一息という、ちょっとしたお祭り気分には最適の農耕に起源をもつ行事かなと、勝手に想っております。

完全に私事ですが、父が亡くなって13年余りになります。亡くなった直後に、母から渡されたFAXがございまして。生前の父宛に厚生省(当時)から問い合わせの返信として出されたもので、わたくしにとっては伯父、即ち父の兄の戦死に関わる状況を知らせるものでした。

755空(元山空)18年11月21日7名戦死同一機
外南洋ギルバート諸島方面に来襲せる敵行動部隊攻撃のためルオット基地発ナウル基地に帰投中自爆戦死。』
以上、原文全文。
元山空(がんざんくう)は緒戦において、小澤中将指揮下でプリンスオブウェールズを撃沈し、ラバウルにて大空のサムライで有名になった、坂井三郎さんなどの撃墜王を輩出した航空隊で、17年9月20日 戦闘機隊を分離、第二五二海軍航空隊に改編。 11月1日 「第七五五海軍航空隊」に改称された部隊です。

17年6月5日ミッドウェー海戦、18年2月にガダルカナル撤退を経て、日本海軍は圧される一方の苦しい状況になります。
伯父がどういう経緯でこの時期に755空に参加したのか、これだけの資料では判然としません。
昭和18年11月にはブラウン、ルオット、マロエラップ、ナウルの基地(飛行場)に40機の一式陸上攻撃機が配備されていました。

史実として、18年11月21日の戦いというのは、所謂ギルバート諸島沖航空戦(ぎるばーとしょとうおきこうくうせん)と日本では呼ばれ、日本海軍航空隊とアメリカ海軍機動部隊の間の一連の戦いです。タラワの戦い・マキンの戦い支援のためにギルバート諸島(赤道直下マーシャル諸島の南方のサンゴ礁からなる、現キリパス領の諸島)付近へ展開したアメリカ海軍第50任務部隊に対し、日本海軍の基地航空隊が4次に渡り攻撃をかけ、日本軍は多大な戦果を挙げたと信じましたが、実際にはアメリカ艦隊は小さな損害しか生じていなかったようです。

米海軍第50任務部隊は4群に分かれた大型正規空母6隻、軽空母5隻を中心とした艦隊で、搭載機は約660機に及びます。11月20日アメリカ軍機動部隊は、ギルバート諸島やミリ環礁、ジャルート環礁(ヤルート)の日本軍航空基地を激しく空襲し、飛行艇3機などが地上撃破され、日本軍は再び航空機による反撃を試みたが、索敵に出た20機のうち12機が失われ、クェゼリン環礁のロイ=ナムル島(ルオット)からの攻撃隊15機は目標を発見できず1機未帰還となったとのことです。

11月21日朝、日本側は攻撃を免れたマロエラップ環礁から5機の索敵機を出し、ギルバート諸島付近で5群のアメリカ艦隊を発見。この報告に基づき宮前信己大尉率いる第755航空隊の陸攻14機がルオットから出撃し、アメリカ海軍第50.3任務群を攻撃。
この攻撃隊は雷撃及び体当たりにより、空母2隻と駆逐艦1隻の撃沈などと日本では報じられましたが(所謂大本営発表)、指揮官機を含む7機が未帰還となりました。アメリカ軍側の記録によると、軽空母「インディペンデンス」が魚雷1発を受けて損傷。この戦闘を、日本側は第一次ギルバート諸島沖航空戦と命名しました。
つまり、伯父の搭乗した一式陸攻はこの未帰還機7機のうちの1機のいずれかということなのでしょう。
一式陸攻は米軍からベティと呼称され、脅威的な航続距離を確保するために翼内に5,000リットルのガソリンを積載し、そのためにライターと称されるほど発火しやすく防禦に劣った機体で、乗員は7名。後に第一回目の桜花攻撃隊(神雷部隊)を率いて、以降の桜花出撃を戒めて散った野中五郎少佐(戦士による二階級特進で海軍大佐)の乗機であり、野中さんも、この数日後の第2次ギルバート諸島沖航空戦に参加しています。

亡父の話の記憶をたどれば、帰ってきた遺骨の箱には何も入っていなかったのか、石が一個入っていたのか、今となれば非常に曖昧です。若干20歳の海軍下士官は、帰省に際し弟である中学に入ったばかりの父にカレーライスを始めて食べさせてくれたそうです。
戦争に負けて72年、伯父の戦死から74年。日本があの戦争に引きずり込まれた状況に、今の北朝鮮状況が似ているとの説もあるようです。

こうして戦闘状況の記録だけを見る限り、戦力の差の甚だしさが悲壮であることは認識できます。但しこれは軍隊と軍隊の戦闘であり、此の後日本の主要都市とその市民が無差別に殺戮される状況とは異なるものです。
この戦いは勇壮かつ、悲しくおろかな戦争の一部であります。若くして散った伯父は水兵帽も凛々しく子供のころ仏間の写真に納まっていました。
願わくば半島北の国交のない国が、以前の日本の様に自棄にならないことを祈ります。


2017年09月04日

神社の格式①延喜式内外

9月に入り、関東は例年より空気が秋の色を含む気配が早いような気もします。
夏至を既に2か月近くも過ぎ、秋分に近くなって陽の高さ具合も視野に入ってくるせいなのかもしれません。
関東は夏の間連日の雨で寝苦しい夜は無いにせよ、農作物の実りには陰りを落としております。

このブログでは幾度か日本の神様や神社をテーマにして参りましたが、今回は神社の格付けについてです。

大きな神社には由緒書きや、石柱にその神社の社格が示されていることが多いですね。例えば○○国一の宮とか、旧官幣中社といった類です。更には正一位△△稲荷という幟ですとか。

それぞれに時代や時の権力により神社、そして神様自身も挌付けされておりまして、まず古くからでは式内社と式外社(しきげしゃ)という格付けがあります。
これは平安中期の延長5年(927年)に成立した、延喜式の9巻と10巻(神名帳と呼ばれます)に記載された神社か、されなかったそれ以外の神社かということです。
延喜式自体は律令官制における格式(施行細則と捉えるのが判りやすいかも)であり、醍醐天皇が時の宰相藤原時平に命じて編纂を開始致しました。時平といえば、天神様となった菅原道真のライバルであり、道真大宰府左遷を画策した人物とされており、道真(後天神様)の祟りで39歳(太政大臣)にて病死したとされる敵役であります。時平死後、後に藤原氏主流となり、史実として確認される最初の関白となる、弟藤原忠平が完成させました。

これに記載された神社は全国で2,861社、鎮座します神々の数は3、132座でございます。

この式内社にも格付けがございまして、まず官幣社と国弊社でそれぞれ大小があります。
官幣社とは、朝廷で神社などを主管する官である神祇官から幣、即ち幣帛を毎年2月の祈念祭に受ける神社であることを示します。幣帛とは祭祀において神に奉献する神饌以外のものを言います。
具体的には当時貴重であった布、衣服、武具、神酒などであります。

国弊社とは神祇官に代わって国司から幣帛を受ける格式の神社となります。今でいえば国から受けるか県知事から受けるかという違いでしょうか。
現在の感覚からすれば、国幣という方が何となく国立みたいな気もしますが、官は神祇官を示し国は国司をしめすということですね。

時代的にその少し後の平安後期~鎌倉時代に成立したとみられるのが、一の宮という格式でこれは旧国内で最も有力(社格が高い)とされる神社で、各(旧)国にあり場合によっては二宮、三宮まで、更に四宮という地名に残っているところもあります。
起源としては国司が国内諸神社を巡拝するに当たり、一番先に参拝する神社ということのようですが、これは上記の官幣大社のように朝廷や国司が決めたのではなく、諸国の信仰が厚く由緒が深い神社が自然発生的に序列化したもののようです。従って一の宮の祭神が必ずしも記紀等の国の正史に記載の、いわば全国的(当時でいえばグローバル?)に有名な神様とは限りません。