カレンダー
10月も半ばを過ぎ、秋雨と天高く澄み切った青空が交互に、少しずつ木々に彩りを加えて参ります。
クールビズからネクタイを再び着けて、営業回りもそろそろカレンダー配りが加わってきます。
梅雨から初夏のシーズン、昔はお中元のシーズンということで、たまにしか伺えないお客様への顔出しのチャンスとして、多忙な季節でありましたが、次第にその習慣も虚礼の廃止、金品の贈与の禁止などで、お受け取り戴けなくなり、すたれて参りました。
儀礼と虚礼。そこに差は余りないように思います。要は受け取る側に妙にゆとりがなくなって、うしろめたさを感じさせるなら、お持ちしないようにするのが宜しいかと、気遣いの延長でございます。
その点、カレンダーであればすんなりとお受け取り戴けることもあり、日頃の感謝と更に普段お伺いできないお客様への配布で、営業チャンスに結びつく絶好の営業ツールなのは間違いありません。
大手企業は独自の編集制作をされるのでしょうが、中小企業でしかも配布するお客様も限定の半端な数であれば、カレンダー製作会社さんが製作したできあいのカレンダーに、社名を印刷してもらうというのが、パターンで。
筆者は当社に入る前の会社(海運会社)にて、東京都内で4年ほど集荷営業をしておりましたが、1社当たりオリジナルの自社カレンダーを2〜5部程度配布し、お返しにお客様のカレンダーを戴いてきて、社内で希望者に配布するという、ちょっとしたお祭り騒ぎの時期がありました。
大手の企業は輸出先への特別なカレンダーを作成したり、自動車会社やタイヤメーカーは自社の特別な顧客用のカレンダーを作成していましたから、一般の家庭では入手できないようなものが結構あり、友人に頼まれて毎年入手するのに苦労したり。今では楽しい思い出です。
さて、日本のカレンダーは世界的にも、その編集・印刷技術・バラエティで特記されるいわば芸術品であります。現代のカレンダーに匹敵するものは、江戸時代に出現しています。
暦は元々朝廷の陰陽寮がつかさどり、阿部晴明の子孫として有名な土御門家が代々、その次席である幸徳井(かでい)家と共に職掌しておりました。江戸時代に至り平安期に採用された「宣明暦」から、幕府天文方の渋川春海の考案した貞享暦(貞享2年:1685年)として頒暦さえることになったのは実に823年ぶりの日本オリジナルの暦誕生となります。
その内容は上段に朔月、節気、日月食などの科学的な算出結果。中段、下段が吉凶を占う暦注となっていました。その後、江戸では商人たちは月末に代金の徴収・支払を行うのが一般的であったため、暦は実に重要不可欠なものでありました。いわゆる太陰太陽暦であり、3年に一度の閏月の発生など、大小(大は30日の月、小は29日の月)の月の並びが変更になることから、この暦を大小暦と呼び、重宝しておりました。
のちに文字以外の干支の動物や、人気歌舞伎役者の図柄が取り入れられるようになり、絵暦(えごよみ)とも呼ばれ、なんと葛飾北斎画
もあったようです。こうなると現代のように、美術品や趣味の範疇に入りこみ、交換会が開かれたようです。こうして現代に繋がるカレンダーの日本における文化的な土壌ができあがったような気がします。
さて、貞享暦はその後江戸時代において最後の天保暦まで3度の改暦を経て、明治維新に至り明治5年11月9日(旧暦、新暦では12月9日)突然の改暦の勅書により、来る12月3日を明治6年1月1日にするとの太政官布告が発表になり、以来グレゴリオ暦が標準となったわけです。
当社は、World Historyという、毎日のその日に起こった記事を掲載したカレンダーを、1995年の当社の前身の一つである超電導マグネットサービス㈱が採用して以来、お客さまに配布しています。
毎年、自身の誕生日に何があったか、来年も少し楽しみな気分でございます。
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