先週滋賀県犬上郡から、近江鉄道経由で更に草津線を経て甲賀から伊賀を廻り、三重県亀山までの列車の旅。というよりなかなか効率の悪い移動ではございますが巡って参りました。
草津線の終点が現在の伊賀市にある柘植という駅です。ここから関西線に乗り換え亀山に向かうのですが、先週は待ち時間がそこそこございまして、初めて途中下車し昼食を。
柘植駅は三重県で初めて鉄道が引かれた駅でもあります。明治23年に甲賀の三雲との間に関西鉄道として営業されました。
さて伊賀国の柘植。既に天武記にその地名は記されており、積植(ツエム・ツミエ)から現在の表記に変わったようです。近くには都美恵(つみえ)神社が鎮座されますが、やはり柘植の木が多かったことが名前の由来のようです。
柘植地区は油日岳を挟み、甲賀盆地から至ると最初に足を踏み入れる伊賀の地となります
伊賀、甲賀といえば、忍者。昨年末は顧客訪問の時間調整で、甲賀の忍者屋敷(旧望月家の元禄時代の居宅)をちょっとだけ覗いてきましたが、伊賀の柘植には残念ですが忍者に関わるものは一切なしであります。
江戸時代前期に藤林某が記したとされる、伊賀の忍法書「萬川集海」では、楯岡の道順、音羽の城戸弥左衛門などと並んで、忍術名人として「下柘植の木猿」「上柘植の小猿」の2名が挙げられておりますが、現在の伊賀市柘植の少なくとも柘植駅付近には忍者の匂いは皆無であります。
駅の前にぽつんとある喫茶店で、焼きそばと珈琲を戴きましたが、その喫茶店で柘植のガイド記事を拝見して、この地が俳聖芭蕉翁の生地であり、戦前に志賀直哉と並び文学の神様とも称された、横光利一との関係が深いことが判りました。
芭蕉翁。血筋としては源平の時代に遡り、平宗清(頼盛の家人で、平治の乱で頼朝を捕縛し六波羅に送るに際し、池の禅尼を通じて頼朝の助命を求めたとされる武将)の子孫として、源平の時代以降柘植氏として封じられ、その一族に福地氏があります。
天正伊賀の乱に際し、信長につき侵攻の案内者として一時的に権力を得た福地宗隆ですが、本能寺にて信長が横死すると国人の攻勢に逃亡を余儀なくされ遁走。その後その弟がのちに帰郷し松尾姓を名乗りそれが江戸期にまで残り、そして芭蕉はその一族というわけです。
さて、一方の文学の神様、横光利一は1935年3月に福島県北会津郡東山村の温泉地に出生しています。父鉄道技術者横光梅次郎(大分県宇佐市出身)と母小菊の間の長男であります。
この母の出身地が当時の地名では「三重県阿山郡東柘植村」即ちこの柘植の地であり、横光利一自身もこの母が芭蕉の血を引いていると常日頃話していたそうです。
横光利一は筆者が中学生の頃に愛読した作家で、最も好きだった作品が「春は馬車に乗って」ですが、この作品は彼の実生活における彼の奥様の闘病生活と死去が大きく影響を与えております。
さて利一は父が明治39年に軍事鉄道施設工事に伴い朝鮮へ転出した際に、母の実家であるこの柘植に移り、小学校の1年から4年の大部分をこの地で過ごしており、柘植の友人にもこの地が故郷であることを文で残しております。
絶筆となった「洋燈(ランプ)」も柘植の場所が舞台になっています。
戦前に菊池寛に紹介され、終生の友人となった川端康成、今東光らと「文藝時代」を創刊し、新感覚派として、文学の神様とまで呼ばれました。しかし戦後宮本百合子等から、名指しで文壇の戦犯と非難され失意のうちに亡くなりましたが、戦後の混乱を知らずに育った愛読者としてはその文学性は日本の文学史上に大きく残る作家であることは間違いないと思います。
死後柘植の地に記念碑が建てられ、川端康成の選で「蟻 台上に飢えて 月高し」の句が記され、その川端康成の弔辞は「横光君 僕は日本の山河を魂として、君の後を生きていく」と締めくくられています。
ちなみに、芭蕉翁の詠んだ句は「古里や 臍の緒に泣くとしの暮」であります。
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