新暦7月に入りました。とはいえ、旧暦では5月の半ば過ぎ。まだまだ梅雨の真っただ中でございます。
先週関越道を北上して、当社の関連会社であります、古河マグネットワイヤ株式会社白根工場まで参りました。途中のサービスエリア赤城高原にて中食も済み、群馬県内の特産品に目をやると、正田醤油の製品が。
わたくしは少々お高めのものを記念で購入。同行のS課長はなんとタバスコとコラボのスパイス醤油なるものを。何に使うか、さてお楽しみでございますが・・・。
今回は醤油と正田さんについてひとくさり。
醤油は味噌の生成でできる液体部分をたまり醤油として、鎌倉時代に金山寺味噌のたまりを紀州湯浅で発祥したらしい(他にも説有)のですが、安土桃山から一般的になり、新興消費都市江戸に酒や油と共に流れ込みました。当時の名産地は泉州堺であったようです。当然貿易港堺でございますから、オランダ東インド会社により、東アジア、更にはヨーロッパに油種され、ルイ14世の宮廷料理でも日本産醤油が使われたとも。
さて三代将軍家光の寛永年間(1640年代)江戸近郊において小麦麹を原料にした、こいくち醤油が登場します。実際には元禄年間(1690年代)にヒゲタ醤油が確立した後で、江戸の食文化を支える調味料になるようです。
うすくち醤油は関西(そうめんで有名な揖保郡龍野)にて円尾孫兵衛が、もろみに米を糖化させたものを混ぜることで、色の薄い醤油を創り出したといわれているそうです。
醤油は海外でも生産をされており、非常にポピュラーな調味料となっていますが、英語ではSoy-Source、原料の大豆はSoy-Beansであります。
ウイキベディアでは、「しょうゆ」がオランダ語経由で訛って伝わったとございますが、私の敬愛する司馬遼太郎さんによれば、幕末のパリ万国博覧会。そうかのエッフェル塔が造られた1867年の万博であります。
本博覧会には日本から徳川幕府(将軍慶喜の弟清水家当主昭武が14歳で)に加え、薩摩藩と佐賀藩が出展しております。幕府の展示には江戸名所図会などの美術品、北斎漫画もあったらしく、芸者の舞踏も見せたとか。佐賀藩は有田焼が初めて国外に。
その中にあって薩摩藩の展示物に醤油があったそうですが、醤油は薩摩弁では「そい」でごわす。これがそのまま国際表記のソイ-ソースになったと、司馬さんは仰います。非常に説得力がございませんか?
ついで、美智子皇后陛下のご本家筋に当たる正田醤油さんでございます。
正田家は上州新田郡世良田の住人で新田義貞の家臣、生田隼人を祖先としております。
天正年間(戦国末期)に当時の家長である、生田義豊が徳川家康に新田関係の旧記由緒を上申し、知行を受け正田と改名を命じられました。
家康は、当時自身の家系について、織田(平氏、右大臣)の後ということで、武家の棟梁として清和源氏であり征夷大将軍としての天下取りを狙っていたこともあり、この生田義豊の上申は非常に役立ったのでしょう。
これを元として作られたのが、清和源氏の新田氏の支流で、上野国新田荘得川郷(現在の群馬県太田市徳川町)を拠地とする得川義季(世良田義季、得河三郎義秀とも)の後裔と称する時宗の僧で、松平郷の領主松平太郎左衛門少尉信重の娘婿となってその名跡を継ぎ松平親氏を名乗ったという、徳川松平家のルーツとなります。
その後正田さんは世良田を出て館林に移り、商人として米穀商を生業とし、「米文」ののれんは、はるか大阪の米問屋までも聞こえるほどの富商であったそうです。
さて、維新を迎え三代目正田文右衛門さんは、明治6年に野田の醤油業者から勧めを受け、米穀商を廃業して醤油製造を始めることになり、これが現代に続く正田醤油となります。
美智子皇后陛下はこの文右衛門さんの孫にあたる、貞一郎(日清製粉社長)さんの三男坊正田秀三郎さん(後日清製粉社長)のご長女であります。
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