☆維新後の神社について☆ | 株式会社古河電工アドバンストエンジニアリング
2015年10月22日

☆維新後の神社について☆

2か月ぶりの更新となります。すっかり秋になりました。24節気のそろそろ霜降の季節暑かった夏に体力免疫力を使い果たした身体に、

優しい冷涼な秋風と美味しい秋の実りが癒してくれます

10月22日は平安神宮の時代祭の日でございます。

この日は延暦13年(AD794年)桓武天皇により、長岡京から山背圀葛野郡字大村の地に遷都された日であり、同年11月8日に平安京と命名されました。

この平安遷都から1100年経過を記念し、明治28年に創建されたのが平安神宮であり、この日の祭祀が時代祭となりました。

時代祭も最近は(2007)国賊として忌避されていた足利尊氏の影響で、外されていた室町時代が加わりました。皇国史観は遥かになったようです。

この神宮という呼称ですが、元は皇室神話に関わる7世紀以前に遡る、ごく少数の社格に限られており、伊勢神宮以外には普通には称されることはありませんでした。

ところが明治以降の維新のエネルギーとして使われた、尊王思想の流れから神社が大量生産され、古の神話や太平記を引っ張り出してやたらと神様に、文字通りに祭り上げられましたし、神社が乱造されました。

明治になって、祀られる対象が天皇であれば神宮、皇族であれば宮、その他の功臣を神社とするようになりました。

大社(おおやしろ)という名称も戦前までは杵築大社(現出雲大社)と、同じく島根の熊野大社の2社のみでしたが、以降は随分増えてしまいました。春日大社、松尾大社、宗像大社、諏訪大社等々。ただ、大社については、延喜式神名帳(平安初期)に大社として列挌されるなど由緒ある神社が殆どの様です。

明治以降に創建された神社は、まず、歴代天皇をはじめとして、開拓地や新開地に於ける天照大神を祭神としたもの。例えば、桓武天皇の平安神宮や、神武天皇の樫原神宮。天智天皇を祀った大津の近江神宮。明治13年に大隈重信邸跡地に建築された東京大神宮そして明治天皇を祀った明治神宮。開拓地北海道に創建された、北海道神宮や上川神社。以前このブログでも紹介した、能褒野神社(日本武尊)なども挙げられます。

 

次に、靖国神社に代表される全国の招魂社と護国神社。最も早いのは慶応4年に明治天皇の勅命により、維新を前に倒れた天誅組等の志士の招魂のために創建された京都霊山護国神社であります。敗戦後はGHQ支配下で京都神社と改称されましたが、独立と共に旧名に服しております。

この神社の祭神には、かの坂本龍馬も含まれており、誕生日でもあり命日でもある11月15日には、龍馬祭がおこなわれます。

龍馬といえば高知の佐川には脱藩に際し通ったという縁で佐川龍馬神社という神社が平成10年11月に創建されています。

靖国神社は東京招魂社として大村益次郎の建白により、創建されています。それで、靖国神社の参道中央に、長い眉毛の大村益次郎の銅像が鎮座されている訳です。

 

維新以前の功臣も神様になっています。

古いのは弓削の道鏡事件の和気清麻呂を祀った護王神社。和気氏ゆかりの高尾神護寺境内に創建され、その後姉の和気広忠も同社に祀られるようになりました。こちらは孝明天皇により嘉永4年に正一位護王大明神と贈位されているので、幕末の勤皇思想が維新を先取りして創建されたものです。

 

勤皇の功臣といえば、建武の中興から南北朝に掛けての太平記の時代の南朝方の功臣は、建武中興15社といわれる各地の神社に祭られています。

代表としては大楠公楠正成を祀った神戸の湊川神社、後醍醐天皇本人が祭神の吉野神宮、護良親王を祀った鎌倉宮、大阪市阿倍野の北畠親房・顕家父子を祀った阿倍野神社。三重県津市の結城宗広の結城神社等15社となっています。

 

変わりどころでは、江戸時代に廃絶されたのが、明治になって再興された豊臣秀吉を祀る豊圀神社であります。この辺になるとアンチ徳川以外に想像できませんねぇ。

 

更に明治時代(日露戦争)の英雄3名が何れも。東郷神社(東郷平八郎元帥)、乃木神社(乃木稀典大将)、児玉神社(児玉源太郎大将 山口県周南市と藤沢市)に創建されて現在に至っています。

 

新たに創建された神社ばかりではありません。明治に吹き荒れた廃仏毀釈の影響で、仏教寺院が神社に代わった例もあります。

代表的なのが、山形県米沢市の上杉神社。戦国を飾る代表的な武将上杉謙信が急死(天正6年1578年)後、遺骸は城内の不識庵に仏式で祀られており、上杉家の移封と共に、会津を経て米沢に遷され、城内2の丸の報音寺を主席とする11の寺院で祭祀をされてきました。

明治になって廃城令と、神仏分離令により、城外の上杉家霊廟に移され、同時に次席寺院の大乗寺の僧侶が還俗して神官となり、大乗寺の姓を名乗り上杉神社の宮司として現在も続いているとのことです。

もう一つが出羽三山神社。言わずと知れた月山、湯殿山、羽黒山の元々修験道の道場であった、ものが明治になって三山一体として神社となりました。

元々は修験道が仏教に属するのか、神道に属するかは微妙ではありますが、江戸時代に別当寺として、仏教寺院として一体となっていたようです。

これが明治6年の神仏分離令により、時の国家神道推進の急進派であった西川須賀雄が宮司として着任し、その際に廃仏毀釈が行われ、特に羽黒山において、伽藍・文物が徹底的に破却されました。その結果、別当寺が廃され神社となって3社を1つの法人が管理することとなり、出羽神社に社務所が置かれ、現在に至っています。

現在の宗教法人としての正式名称は「月山神社出羽神社湯殿山神社」となっており、出羽三山神社は俗称でございます。

さて、明治になって建立された神社を挙げてみましたが、実は明治以降は実際には大幅に神社の数は減っております。

明治39年(1906)12月に1町村1社を原則として統廃合を行う「神社合祀令」が発布されました。最も顕著なのは三重県で6500社が1/7に、和歌山県では3700社が1/6に減少し、1913年には19万社が12万社迄大幅に減少しました。

その結果古来の神々の由緒が大きく損なわれ、特に出雲系の信仰が大きく後退し、記紀神話の皇統譜に統一されていくという、現代では北朝鮮かIS国並みの偏狭な思想統制に近いことが行われました。

この施策により物理的には広大な面積の鎮守の森が失われる結果にもなり、入会地として農村の大きな財源が国家に摂取されることにもなりました。

あの戦争により多くの変化がありました。

神道は宗教か否かという問題が戦前は議論されたようですが、国家神道という中では宗教を超えた教育の基礎とされ、教育勅語はこれが根底となっているようです。

明治維新とは、全てがハッピーな変革ではありませんでした。

人民の90%を超える農民が四公六民と(後に天領と呼ばれることになった幕府直轄領では江戸時代を通じて保たれた)米で納めていた税が、現金での支払いに代わり、それだけで農民の小作化(不在地主の出現)が著しくなり、更に古代防人時代以来の徴兵制度で労働搾取されと、一般の国民には迷惑極まりなく、それゆえに維新後に所謂一揆は大幅に増加しています。

 

戦後、その時代に生まれたことの幸せは、神社の変遷を見ただけでもなんとなく実感できるように思えます。

 

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