遅ればせながら、謹んで新年のご挨拶を申し上げます。
本年も倍旧のご厚情を賜りますよう、お願い申し上げます。
私どもの親会社でございます、古河電気工業株式会社には国内に何か所も事業所があります。
グループ発祥の地である、足尾には以前紹介致しましたように、古河機械金属さんが今でも事業所を構えておりますし、これも日本武尊絡みで紹介致しました、旧陸軍飛行場跡の三重事業所など。
その中で唯一メジャーな鉄道の最寄駅から10分以内に居を構えるのが、兵庫県尼崎市道意町にございます銅管事業部門であります。最寄駅は阪神電鉄の尼崎センタープール前。競艇場とは逆の南方向にまっすぐ徒歩7分という至近にあります。
なんせ他の事業所は、交通事情からすれば不便な事業所が多く、中には最寄駅からタクシーで往復5千円以上は掛るのがざらというなかでは、非常にありがたいところです。
そもそも、此の辺りの住所道意町の起源は、江戸時代初期(1653年)西成郡海老江(現大阪市福島辺り)の医師中野道意の係累の者3名が開発を願い出て開発され、当初は太布脇新田、寛文9年(1669)の検地に際し道意新田と改名されております。新田と言いながら、主産物は当時大々的にこの辺りで流行りつつあった、綿花すなわちコットンを取る植物であります。
肥料は主に北海道から北前船に乗せられてきた干鰯、鰊でございます。源平時代に大物から福原京までのメインルート沿いであったとはいえ、江戸時代までは荒野として打ち捨てられていたと推定されます。
さて、銅管事業所ですが、第一次大戦後の1936年に大庄村字道意の甘藷畑16万5千平米を入手し、1938年(昭和13年)11月1日に大阪伸銅工場(略称大伸)として開所しております。
古河電工グループにとって不名誉な大連事件によって巨額損失を生じた後の、再編策の一つとして、いずれも出資していた日本伸銅(旧大阪電気分銅)と尼崎伸銅を1934年に古河電工に合併させ、それぞれの伸銅所に代えて、この地に新工場を建設したことによります。
本工場は空襲被害は殆どなく、むしろ戦後すぐ(1945年9/18)の枕崎台風による高潮で大被害を受けたようです。
銅管のシェアは現在国内で3位となっておりますが、銅管需要の落ち込みと海外への生産拠点の移転などから、最盛期に比べると人員も相当減少しております。ただ、木造の古き良き時代を感じさせる本館建築物は必見で、筆者も大好きな事業所の一つであります。
さて、昨年末にご挨拶に訪問し、帰りに大阪の西中島のお客様に寄る駅からの道すがら、写真の案内にふと目が留まりました。幾度となく通った道でありながら今まで全く気づきませんでしたが、なんと大楠公の首塚。
案内文をそのまま写しますと
⇒「湊川合戦で討死した正成の遺骨を捧持した落ち武者たちが、河内へ埋葬しようと当地まできたところ、落ち武者目当ての野党の群れに襲われやむなく首級のみ仮埋して去り、そのままになったといわれている。
その場所は徳蔵寺本堂の西北にあった竹叢の辺りだとの言伝えがあって、江戸時代に祟乗という住職の折 そこを開き二箇の五輪塔を建て、阿字と座像を刻み供養した。
しかし戦災に逢い 戦後に訪れたときには墓地に散乱して見るも無残なさまであった。その後保育園の経営、本堂の債権などで現在は所在も定かではない」
楠正成は、大楠公と称され、出自は楠氏自体も含めて未だに様々な説がありますが、千早・赤坂城の戦いから鎌倉幕府滅亡までの華々しい活躍と、建武の中興崩壊後の滅びの美学は源義経と並んで、戦前の日本人には絶大の人気を誇った武将です。
大楠公首塚は、楠氏の代々の菩提寺でもある、大阪府河内長野市にある檜尾山観心寺にもございます。こちらは南朝びいき筋の太平記に対して、足利幕府寄りの史書である「梅松論」の記述によれば。
足利尊氏卿自らの「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」との意思により、戦死した正成の首を丁寧に遺族に返送することを命じ、その首が葬られているとなっております。
湊川から河内への道筋と言われれば、確かにこの付近の地はさもありなんと思わせます。
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