三部作の最後となります。
ところで一般に幕藩体制といわれることがありますが、実は藩という組織は江戸時代には少なくともそういう呼び方はありません。
中学の歴史教科書で習ったことのおさらいです。
江戸幕府最後の将軍徳川慶喜が慶応3年10月14日(1,867年11月9日)大政奉還。翌15日勅許される。10月24日に将軍職辞職。同年12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令発布し、将軍職辞職を勅許し、幕府を廃止する。
鳥羽伏見の戦いを経て、慶応4年4月11日(1868年5月3日)江戸城明渡にて、明治政府が主権者となる。
今後幕府領は江戸、大坂、京等の主要都市を含めて、天皇領(明治政府直轄地)となり、徳川家は静岡に移封となり、同時に会津松平家も斗南に移封などの措置がとられ、天皇領は府県制が敷かれることになりました。
明治2年版籍奉還が発布される。旧幕府領である天皇領に続いて、大名領についても土地、人民は天皇のモノであることを確認して、大名を知藩事として任命し、継続して統治させた。
明治4年7月廃藩置県。版籍奉還にて藩となった大名領を県と改め、中央政府が任命した県令に統治させ、3府(東京、京都、大坂)302県が成立した。
同年11月統合整理により3府72県まで減少。旧国を基礎に人口、面積でサイズを揃えた。
以降明治9年まで調整が行われ、独立、統合、琉球王国の沖縄県への移行などで47都道府県に整理され、明治21年に香川県が独立して、現在の47都道府県となりました。
この藩という言葉は元々中国で、辺境の王を藩王などとして、中華の皇帝の属国扱いをしていたものです。
日本では江戸5代将軍綱吉時代に幕閣で将軍を皇帝として、各大名を藩王とする旨の動きがあったようですが、さすがに天皇の存在があり一般化はしませんでした。
それが、幕末長州の所謂志士と称した、はぐれモノたちの間で、自らを長藩というのが流行し、他の大名家の志士たちが真似をし始めました。このはぐれモノたちが明治政府を作り上げていく過程で、このはやり言葉を公な大名領の呼び方として(確かに簡単で便利な言葉ではあります)採用したのだと思います。
それでは、江戸時代はなんと称したかと言えば、米沢であれば「上杉大膳太夫様ご料地」とか、会津だと「松平肥後の守様ご料地」と呼ぶのが一般的だったそうです。
無論住所としては、総州(上総の国)市原郡八幡村となりますので、現在のように行政と地名は一致いたしません。
ついでに申し上げれば、25%を占める幕府領については、最近天領と言っているようですが、これは明治になって幕府領が天皇の料地となり、天領という言い方が生じてのちに江戸時代にも遡って呼ばれることになったようです。
版籍奉還に際しては、それぞれの大名領の都市(城下)が藩名として採用されましたので、1
国がそのまま藩である大藩でも、例えば長州は山口藩だし、鹿児島藩、和歌山藩はあっても長州藩、薩摩藩、紀州藩はありません。正式には尾州には名古屋藩が2年だけ存在したことになります。
会津藩については、その前に斗南(青森県と北海道の一部)に移封されて、天領(天皇領)として若松県となっておりましたので、会津藩も若松藩も存在したことすらありません。
従って、時代小説などで普通に使われる尾張藩、尾州藩などというのは、俗称として明治以降に一般化したことになります。
続くかもしれませんね~(笑)
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