私事でございます。
本年になっての物故者も既に半年がたって、最近の野際洋子さんまでご生前を思い出し、ついついため息とともに思いを馳せてしまいます。
その中で2月に亡くなった児童文学者の佐藤さとるさんには、思い入れが随分ございます。
小学校入学のちょっと前くらいから、我が家には小学館の「少年少女世界文学全集」50巻が毎月配本されて参りました。
どちらかといえば外で泥だらけの腕白というタイプではなかった私は、この毎月の配本を楽しみにしておりました。「足長おじさん」「二人のロッテ」「ピーターパンとウェンディ」「三銃士」「西遊記」「杜子春」などの名作が名訳で、挿絵も当時の有名な画家さんといった、今でも十分大人の読書に耐えるシリーズでございました。
中でもシリーズ化の一作である「公園のメアリーポピンズ」「ドリトル先生航海記」は大層気に入ってしまい、2年生になるとそれだけでは物足りなくなり、当時住んでいた家から子供の足で20分ほどの市立図書館に通い、そのシリーズを順次借りて読むようになりました。
その図書館で見つけたのが佐藤さとるさんの「誰も知らない小さな国」という、後にころぼっくるシリーズと名付けられた最初の本と、これも2014年に亡くなった古田足日の「盗まれた町」でした。
当時の住まいが北海道の士別市という小さな街で、コロボックルは元々北海道先住民の神様でもあり、古事記の大国主による国造りの相棒である少彦の尊の存在という知識もその後加わり、このシリーズは何度も読み返し、自身が子供達の父となり、娘に読ませるために文庫版を購入したり致しました。
その作者が亡くなり、その直後にたまたま書店で「だれもが知ってる小さな国」というハードカバーを見つけました。なんと人気女流作家の有川 浩さんが著者。
これは、村上春樹の新訳でチャンドラーのフィリップ・マーロゥシリーズ(最初の作品はFarewell, My Ladyでした)を発見した時と等しいレベルのわくわく感でした。
作品は確かに有川 浩節なのですが、全体を流れる少し突き放したとも感ぜられる、客観性はシリーズそのままのイメージなのだと感じました。
元もとのシリーズ第一作には先の大戦を挟んだ前後の作者の屈託が、少しだけ冷徹に語られているのですが、子供心にそのイメージは重いモノでした。多分戦死した父方の伯父を毎日仏壇に悼む祖母の姿が色濃く反映したのでしょうが、戦後ずいぶん経って生まれた筆者にも、その事実は重苦しさという形で影を落としていたのでしょう。
2作目以降の「豆粒ほどの小さな犬」、「不思議な目をした男の子」にはその影は見当たりません。それは誰も知らない国から、知っている存在が増えて、最初の主人公の庇護の元から次第にコロボックル達が自立していく過程が拡がり、それは戦争の影から日本がテイクオフしていく姿にも似ているかもしれません。
そして、戦後70年を経て有川 浩さんは「誰もが知ってる小さな国」で扉をこじ開け、更に広げていく可能性を示唆しました。そこには人種を超えて人類という共通の存在になろうとする夢が込められているのかもしれません。
新しいシリーズになるかどうかは判りませんが、上記のような扉を開いたことで、更なるハッピーエンドは不要だと筆者は思います。
欧米の児童文学はその時代、アメリカで随分映画化されました。家族ロビンソン(原題はスイスのロビンソン)「二人のロッテ」は邦題「罠にかかったパパとママ」というように。そして少し遅れてメリー・ポピンズはミュージカルに。
日本の児童文学もそうなると良いと思うのはわたくしだけでしょうか。
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