八幡さんは唯一の天皇が祭神の神社ということで、皇祖神として神格では天照大神に次ぐ皇室の守護神とされ、宇佐神宮や石清水八幡宮は伊勢神宮に次ぐ、第二の宗廟として、崇敬されていきます。
基本的な八幡さんの祭神は誉田別尊(応神天応)を主神として、比売神(宗像三女神)、応神天応の母である神功皇后を合せて、八幡三神として祀られます。その他に父仲哀天皇、武内宿禰、玉依姫が祀られているものもそれなりにあるようです。
元々の呼び名は「やはた」であり、幡(はた)は神の依り代としての旗と同義語で、八つ(数多く)の旗を示し、神功皇后の三韓征伐に際する、往復路の対馬にて祭壇に八つの旗を祀ったとされ、更に誉田別尊誕生の折には家屋の上に八つの旗がひらめいたとされ、語源とされております。
宇佐神宮は道鏡事件での和気清麻呂による託宣で歴史的には有名ですが、それ以前から皇室ゆかりの神社であり、託宣を良くする神様で有名ではあったのでしょう。
八幡神社は全国に44,000とも言われ、一の宮としてだけでも、事任八幡宮(遠江)、筥崎宮(筑前)、千栗八幡宮(肥前)、上津八幡宮(対馬)、宇佐神宮(豊前)、柞原八幡宮(豊後)、鹿児島神社(大隅)、新田神社(薩摩)の8社もの数が挙げられ、当然日本では一番です。
九州の9国のうち6国がそうだというのも、興味深いことです。
三大八幡とは、宇佐、石清水に筥崎宮もしくは、鎌倉の鶴岡八幡宮を指しますし、その他にも江戸三大祭りで有名な深川の富岡八幡宮や、地名の由来となっている郡上八幡町や、市原市八幡(飯香岡八幡宮)などが挙げられるなど、稲荷社に次いで多く生活に密着しております。
さてもともと「やはた」と呼ばれていた、のがはちまんとなったのは、大菩薩の神号が正式に宇佐に朝廷より贈られて以降となります。
経緯はもともと宇佐には東大寺大仏建立への協力等の下地があったことと、天平時代の朝廷の仏教政策として、民衆への布教を一義とする路線と、国家鎮護優先路線の対立があり、宇佐の当時の宮司が前者の立場に立って、仏教守護神として八幡宮の立場を位置づけた結果として、宝亀8年5月29日(777年)に八幡神が出家し、天応元年(781)に八幡大菩薩の号が正式に送られた訳です。
しかし実態としては、称徳天皇(46代孝謙帝重祚し48代)が770年に薨去し、その異母妹井上内親王の夫で、光仁天皇(49代、天智天皇の孫)が即位。しかしその直後に井上内親王は皇后を廃位され謎の死を遂げました。
その結果、天武帝直系の聖武天皇(45代:孝謙の父)の血統が途絶え、天災が頻発したことを長屋王を加えた天武天皇直系一族の祟りと考え、仏教に深く帰依していた聖武天皇が没後に八幡神と結合したと当時の朝廷は捉えていたことから、八幡神に大菩薩号を与えて祟りを防ごうとしたというのが通説です。
時代は下り、平安も中期以降に桓武平氏と清和源氏に代表される、武家の時代になって参ります。平将門、藤原住友による承平天慶の乱では、石清水天満宮で調伏が祈願され、平定後には国家鎮護神として、崇められることになりますが、将門自体も上野国庁にて、八幡大菩薩により「新皇」の地位を保証されたとの、将門記の記述がございます。
いずれにせよ、朝廷の体系としての天照大神と異なる武家社会の、新たなる神体系として利用されたのが、大菩薩として習合した八幡神であり武家が奉じた理由であったのでしょう。
源頼義は河内国壺井に勧請して壺井八幡宮を河内源氏の氏神とし、その子義家は石清水八幡宮で元服し、自らを八幡太郎義家と称しました。
頼朝も鎌倉幕府開府後に、鶴岡八幡宮を勧請していますし、代々の足利将軍も厚く帰依しております。
明治の廃仏毀釈(神仏分離令)により、僧形八幡は廃却され大菩薩号が明治政府により禁止され、全国の八幡宮は神社へと改組されました。
とは言いながら、戦中は以前本ブログでも紹介致しました、海軍の一式陸攻部隊である、野中五郎さん指揮下では南無八幡大菩薩の大幟を掲げたとの伝説もあります。
実は弊社の所在地である市原市の住所も市原市八幡海岸通りであり、最寄駅である八幡宿はそのご近所の飯香岡八幡宮(旧県社。石清水八幡宮の市原別宮)に由来致します。
次回は御祖父さんのヤマトタケルを祀った神社についてを予定しております。
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