唯一例外が八幡神、即ち応神天皇であります。
系統から申し上げれば9代開化天皇の子が実在がある程度確実視される10代崇神。その子が11代垂仁で、12代の景行までが直系となります。
景行の子が13代の成務ですが、14代は成務の兄の息子仲哀天皇となり、仲哀と神功皇后(開化帝4代の後胤)の間に生まれたのが15代の応神帝となります。つまり、父仲哀天皇の父即ち御祖父ちゃんがヤマトタケル。素戔嗚と並ぶ日本神話最大のトリックスターであります。
孝元 開化 倭姫命
崇神 垂仁 成務
伊香色謎命 景行
日本武尊 仲哀
応神
神功皇后
八幡神社の総本社は豊前宇佐市の宇佐八幡宮となりますが、この神様、いろんな託宣をなさる神様で、道鏡事件の和気清麻呂に留まらず、結構矛盾も多いのですが、自身の身の上に関する託宣では
①筥崎宮の神託を引いて、筑前国の大分八幡宮(飯塚市)が宇佐神宮の本宮であり、筥崎宮の元宮だとの託宣。
②欽明天皇時代(29代571年)に宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり「我は、誉田天皇廣幡八幡麻呂、護国霊験の大菩薩」の託宣。
③748年(天平20年)「古へ吾れは震旦国(中国)の霊神なりしが、今は日域(日本国)鎮守の大神なり」(『宇佐託宣集』巻二、巻六)と託宣
と、それぞれ意味深なことをのたまわっております。
②の託宣が、誉田別と呼ばれた応神天皇が、八幡神であるとの根拠となっており、記紀には記述は無いもののその後の東大寺要録や住吉大社神代記にあることから、奈良~平安時代に習合していったと推定されています。
宇佐社自体はおそらく元々は北九州の豪族で国造でもあった、宇佐氏の氏神ではなかったかと推定されます。神社南方の御許山山頂に奥宮として、3つの巨石を祀る大元神社があり、これが宇佐氏の磐座信仰で当初の形態と考えられます。
大神(おおが)比義(豊後大神氏)により上記②の託宣により、神社として欽明帝時代に祀られたのでしょう。
道鏡事件(769年)後に宮司制度が導入され、上記の大神氏(中央の大三輪氏から派遣との説も有)が大宮司を務め、その後小宮司であった宇佐氏が入れ替わるのは、単純に力関係によるものなのか、元々宇佐氏の方が地縁として強かったのか微妙なところではあります。
宇佐氏の一族としては、現在の出光興産のオーナーである出光家も大宮司であった時期があるとのこと。そういえば宗像神社にも出光さんのモニュメントがあったような。
八幡大菩薩(八幡様3)に続く
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