☆ヤマトタケル☆3 | 株式会社古河電工アドバンストエンジニアリング
2012年09月10日

☆ヤマトタケル☆3

☆ヤマトタケル☆2続々編です。

古事記によれば、后と子供達が、書記に寄れば父景雪行帝ノボノ稜を

作ったとなっています。

この稜時代を経てお守りが絶え、江戸時代にはその場所について

喧々諤々と諸説が出ておりますが、明治12年になって川崎村

田村の銚子塚の前方後円墳を内務省が薨去の地と決定し、

16年には久邇宮朝彦王のより【能褒野神社】と

社号を選定し、創立され付近の地名もず~っと下がり命名されたようです。

歴史は下り、現所在地はどうも陸軍の飛行学校、即ち飛行場のようです。

近隣に海軍の鈴鹿航空基地があるので、混同されがちですが

こちらは、ホンダさんの工場などで、古河電工三重事業所は、

明野陸軍飛行学校、北伊勢分教所跡地であるようです。

陸軍の飛行学校は爆撃の浜松、偵察機の下志津(現千葉市)に対して

戦闘機の明野学校で、戦況の拡大に伴い、搭乗員(パイロット)の拡充のために

あちこちに分教所が設立され、その一環として1943年4月に成立しています。

後の1944年6月には、学校から教導飛行師団となり実践部隊に変更、

知覧などへの特攻隊への中継基地としての役割を担ったようです。

事情所自体は非常に広いのですが、飛行場からすればごく一部

戦前の軍というもののスケールの大きさはいかほどであったのか?

呆れてしまう限りではあります。

写真は、神社(御陵の)近景であります。


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