随分間が開いてしまいました。
高階家と伊勢神宮の関係をお約束しておりました。
今回は、伊勢物語に端を発する伊勢神宮に障りあるところを主点に。
高階という一族の成り立ちと2回に分けてみたいと思います。
伊勢物語は「昔男ありけり」で始まる、在原業平とおぼしき貴公子を主人公とする、歌物語であり、作者は紫式部の昔よりさまざまに取沙汰されてきました。
なぜ伊勢となったかが、伊勢神宮の斎宮との第六九回のエピソードに起因しているという説もあり、本稿のテーマでございます。
主人公は恬子内親王(848?~913)。
文徳天皇を父に、紀静子を母に持ち同母兄弟には惟喬親王、惟条親王、述子内親王、珍子内親王。異母兄清和天皇即位に際し、卜定にて斎宮に選ばれ十三歳(頃)に伊勢へ向かったのが861年でございます。
もう一方の主人公、在原家の五男坊で、小野小町などと並び藤原定家に六歌仙と讃えられた、略して在五中将(右近衛権中将)とも呼ばれる、平安初期の大プレイボーイであります。
伊勢物語の中ではホンマかいなくらいの勢いで、手当たり次第。お江戸にも業平橋の地名を残しておりますが、実在の業平は薬子の乱に関わり割を食ってしまった、平城天皇の第2子である阿保親王の5男坊であり、生まれた翌年(826年)に次男仲平、鍋で有名な三男行平、守平(四男)と共にまとめて在原朝臣を賜姓され臣下となっています。
嵯峨天皇の子仁明天皇の晩年に左近衛将監、蔵人として仕え849年に24歳にして無位から、従五位下に直叙されますが、文徳天皇時代は鳴かず飛ばずでどうも官にも就いていなかったようです。
ところが、清和天皇に譲位された後は862年37歳にして、従五位上に昇位し左兵衛権佐(今でいえば大佐に近い中佐)に任官し、そのまま左近衛権少将、右近衛権中将と武官としてトントン拍子に出世しています。
そしてもう一人の主役が、高階峯緒。藤原4兄弟に一族もろとも自害させられた、左大臣長屋王の玄孫で峰緒王。843年に高階真人姓を賜り、臣籍降下。その後従五位下に叙任し下野介、伊予守、肥後守等の地方官、所謂受領を歴任しています。
その後左中弁から大蔵大輔といった京官になり、従四位下に昇進し、恬子内親王が斎王になった861年5月に伊勢権守に任官しており、斎宮守も兼任したようです。
背後関係と人間関係を整理します。
事件のあった時代は清和天皇の御世。藤原氏では北家が次第に台頭してきています。
文徳天皇が858年に崩御され、清和天皇が8歳で即位。外祖父である藤原良房が太政大臣として後見。
業平の正妻は紀有常の娘、名は伝わっておりません。紀有常は恬子内親王の母紀静子の兄弟であり、業平の妻とは従妹同士となります。
紀氏は古代有力貴族であり、蘇我氏、葛城氏、平群氏などと同様に武内の宿禰の子孫として、大化以前の朝廷を形造った一族ですが、この時期は藤原氏にほぼその機能を奪われています。
恬子内親王の同母兄、惟喬親王が文徳天皇の第一子で、天皇に可愛がられながらも、即位できなかったのも、4男惟仁親王の母が右大臣藤原良房の娘、明子であり生後8か月という前例に無い年齢での立太子だったことが、この時代には紀名虎(静子と有常の父)よりも良房の方が相当有力であったのでしょう。
事件の発端は、狩の使者として業平が伊勢に下向するところから始まります。貞観5年(863年)と推定されます。恬子内親王は斎宮下向後2年目満年齢で15歳。
業平君は左近衛権少将で38歳の男盛りです。
恬子内親王には、母静子から「狩り使いが行くけど、いつもの使いよりも労わってあげてね」ってな文が届きます。まあ静子からすれば、姪っ子の旦那だから宜しく。みたいな感じだったのでしょうか。
親に言われて、結構頑張ってお世話をするわけです。具体的には斎宮というのは、相当大きな組織であり、官人はどうも男女合わせて500人にも及ぶお役所であったらしい。そこのトップである斎宮さまが、個人的にどういったお世話をしてあげたのは、ちょっと想像に余ります。
が、この38歳のプレイボーイ業平君、自分の娘くらいの、しかも妻の従弟であり、絶対的な処女性を求められる斎宮に懸想してしまうんですね。
この時代から後の光源氏の時代を含めて、妻問婚が基本で和泉式部に例を取るまでもなく、現代から較べても割合にその辺りは自由闊達というイメージはありますが、神に仕える巫女さんしかも伊勢神宮の斎宮の内親王さんはいくらなんでもまずいと思うのは、さえない初老の私のやっかみでありましょうか。
伊勢物語では、寝物語だけで、翌日は狩りの使いが来ていると耳にした、伊勢の守が宴会を催し業平が忍べずに、夜が明け王とする頃恬子内親王が盃の皿に歌を記して渡します。
「かち人の渡れど濡れぬえにしあれば」
業平がその皿に下の句 「又あふ坂の関はこえなむ」 としるし、夜が明けて尾張の国に向かった。更に「斎宮は水の尾の御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬の親王(みこ)の妹。
と記されて、終わっております。
伊勢物語では、なまめかしくせつないシーンはてんこ盛りですが、行為には至っていないことと、高階峯緒とみられる伊勢の守の強引な宴による横槍が書かれています。
つまり、証拠隠滅の匂いが芬芬なのは、作者が紀氏に連なる紀貫之という説にも繋がります。
しかし、世間の噂では、このときに恬子内親王が身ごもり、翌年に男子が生まれたことと、伊勢権守の高階峯緒がその子を自身の子息茂範の養子として育てたというのが定説となっております。
地方官主体の高階家ではありますが、この子師尚は父(?)業平同様の従4位右近衛中将にまで昇っております。
これをもって、一条天皇の時代に高階の一族に連なる親王は、伊勢神宮に憚りがあるとて、道長の娘彰子の子後一条天皇の即位の因縁となるのであります。
御堂関白藤原道長。
平安時代中後期、藤原摂関政治最盛期の氏の長者であります。
天武、持統帝時代に律令政治を実質的に仕立て上げた、大職冠 藤原鎌足の二男にして右大臣 不比等から数えて11代目。不比等没後242年を経て生まれております。
この間不比等の4男子(長屋王の祟り?なのか一斉に没するが)を発生とする、藤原4家は中には謀反を起こすものもいたりしながら、古代貴族を次第に追いやり、賜姓された源平橘氏等を主体とする貴族たちをも取り込みながら、繁栄の一途をたどって参りました。
藤原4兄弟の二男房前を発祥とする北家は、必ずしも当初から繁栄した血筋ではなく、最初はむしろ長男武智麻呂の南家や、三男宇合の式家の方が華やかでした。
房前のひ孫にあたる冬嗣が、嵯峨天皇の側近として重用され薬子の乱を経て大抜擢されたことと、その次男で人臣最初の摂政となった良房(804~872)の時代に北家全盛の礎が築かれました。
更にそれから5代、約百年後の10世紀末から11世紀に掛けて栄華を誇り 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の欠けたることも なしと思へば」と詠ったのが従一位 摂政 太政大臣と人臣を極めた 藤原道長その人であります。
さて、道長自身は父兼家の五男(四男説もあり)であり、父兼家(三男)が長兄伊尹の庇護があっても、次兄兼通との軋轢で紆余曲折を経て関白になったように、一族には相応のライバルがあり、必ずしも順調に位人臣を極めた訳ではありません。
道長の最大のライバルは中関白家として一家をなしていた、長兄道隆の一族であります。父兼家は自身の娘詮子が産んだ懐仁親王を早く皇位に付けるために、花山天皇を騙して出家させてしまい、即位をさせ摂政・氏の長者となります。
そして長男道隆を内大臣とし、律令制度史上初の四大臣制度とし、関白にまで上り詰めてその三日後に病気を理由に道隆に関白を譲って出家します。
この時に道長は従三位権中納言で、長女彰子誕生の時期です。
道長に第一のチャンスが巡るのは、この道隆の死去によります。どうもまっとうな病気というより、大酒による糖尿病の悪化とのことです。995年享年四三歳。嫡(次)男伊周の関白就任の奏上など、最後には随分ばたばたしたようですが、認められず弟である三男道兼が関白となりました。
その道兼も数日で伝染病により亡くなります。
この時点で、道長は二九歳権大納言。対して伊周は二一歳で急激且つ強引な引き上げで内大臣となっていました。
道隆の強引さは世間の反発を招いたようで、特に一条天皇の生母詮子(東三条院。道長の姉、道隆の妹)は厳しく伊周よりも道長を推し、その結果道長は内覧、右大臣、藤原氏の氏の長者となります。
翌年、伊周は何と花山上皇に矢を射かけるという重大事件を起こし、大宰権師に左遷され、弟である三男隆家も連座し地方(出雲権守)に飛ばされます(長徳の変)。
これが第一のチャンスでありますが、想像するに21歳の伊周に対して、詮子も含めた周りが抱いた、一種の危うさと父道隆の強引な引き上げに対する嫌悪感が、きわめて男性的で伊周よりも多少年上の安心感が好感度を得たのでしょうか。
翌年に「ああ、やっぱり」と思わせるような事件を起こすことは別として。
一条天皇は中宮定子の兄である伊周を推したようですが、母である詮子に強く請われて道長を選んだということでしょうか。
さて次のチャンス。
摂関政治時代に限らず、代々の首班が娘を入内させ、その子が皇位を得ることで外祖父として時の権力を得るという図式はセオリーとなっています。
一条帝には990(13歳)年に入内し、その年に中宮立后された道隆の娘定子が正妻としております。この定子の女房として「枕草子」の作者清少納言がつかえています。
長徳の変で兄二人が左遷させられた時に、定子は19歳、内裏を退出し出家しています。この時には伊周の護送に際して、母高階貴子(道隆の正妻、定子の母でもある)の嘆きはひどく、間もなく亡くなっています。
ですがその年の12月に定子は一条帝の第一子、修子内親王を出産するという、逆転ホームランを放ちました。
喜んだ一条天皇に懇願され、翌997年に再入内し999年11月7日には念願の敦康親王を出産。尚、恩赦として同年に伊周は帰京を許されます。
この11月7日は、実は道長の娘彰子が入内6日目にして女御宣旨が下った日でもあります。988年生まれの11歳。定子の清少納言に対して、紫式部、赤染衛門、和泉式部更に紫式部の娘、大弐三位などそうそうたる文化サロンを作り上げていますが、これも道長の趣味のようで、紫式部の源氏物語原稿の催促に、式部の局に入りびたりという逸話も残っています。
清少納言と紫式部。どちらかが、相手を嫌な奴みたいなことを書いていたという記憶があるのですが、どちらであったか定かではありません。いずれにせよ翌1000年には定子は媄子内親王を出産した直後に崩御していますので、この二人が同じ宮廷内に共にいたのはわずか1年位なのでしょうか。
彰子は1008年20歳にして敦成親王(後の後一条帝)を生みます。
定子の産んだ敦康親王と彰子の産んだ敦成親王のどちらを皇位に付けるか。既に定子は亡くなり、伊周の中関白家も既に没落しておりましたが、道長はここでも周到に定子の母である高階貴子を引合いに、道長のブレーンで一条天皇の寵臣でもあり、当時の朝廷で故事に優れた知識人として知られた藤原行成に「高階氏の血を引く敦康親王の即位は、伊勢神宮の怒りを買う」と進言させて、とどめを入れています。
最終的には一条帝、三条帝、後一条帝と三代に渡り娘を入内させています。逆に長男頼道は外祖父とはなれず、その結果摂関政治から上皇政治に形態が移ったともいえる訳です。
ところで、高階家と伊勢神宮の関係ですが。
これは次のお話に致しましょう。
「♪つぅらぁいぃ恋なあらぁ、ネオンの海にぃ」で始まるこの唄。
カラオケは結構好きです。年期も入っております。8トラックのカラオケスナック時代からの愛好者でございますが、さすがに娘の様に一人カラオケまでは行けない。
当然昭和の歌がメインになりますが、なかでもこのフランク永井さんの「夜霧の第二国道」も定番の一つです。
東京都内で勤務を始めたころに(内幸町でした)、住まいは横浜の保土ヶ谷でありましたが、夜の接待が終わり終電が過ぎた後のタクシーはもっぱらイチコクか、東名、第三京浜経由でした。
一般に京浜地区に暮らす人たちは、この東京~横浜間の道「国道1号」を第二京浜もしくはニコク、「国道15号」をイチコクもしくは第一京浜と呼びます。
全国に国道は全部で464あります。
1号から始まり58号。以降番号は途切れて101号から507号まで。
R1即ち国道1号はお江戸日本橋から大阪市北区の梅田新道交差点までの、総距離774.4㎞(実際の現道は543.2㎞)と日本で3番目に長い国道で、旧東海道(江戸~京都)から京街道(京~大阪)をほぼ踏襲しております。
国道2号は大阪梅田の1号の終点から福岡県北九州市門司区老松町までの旧西国街道(山陽道:京都~九州で本来は大阪はバイパスされ神戸に)で、3号はその先を熊本など九州西岸を南下して、鹿児島市に至る道であります。
4号はお江戸日本橋を起点に白河~福島市から仙台に至り、更に太平洋岸を北上し、青森に至る総距離887㎞の全国一長い国道であり、5号は海を渡って函館から倶知安~余市~小樽経由で札幌に至る、函館本線に平行した道であります。
6号はまたお江戸日本橋に戻り、水戸街道即ち常磐道経由の太平洋岸沿いに仙台に至り、7号は新潟市中央区から、青森に日本海側を北上、8号はこの新潟から京都市下京区の烏丸五条交差点まで、富山~金沢~敦賀~彦根を経由する、北国街道と琵琶湖の東岸を走る道です。
9号はこの8号の終点を起点として西北に福知山まで上がり、そのまま山陰を経由して下関に至ります。
10号は皆様の予想通り、門司を起点とし大分~日向~宮崎と九州東岸を経由して鹿児島に至りまして、これで大方札幌から鹿児島までの太平洋側、日本海側を網羅した国道網となり、以後は地方どうしを結ぶ道路という位置付、そんな印象です。
10番台で日本橋を起点とする道が、いくつかございまして。まず千葉市に至る14号であり、15号が横浜に至る冒頭のイチコク、第一京浜と呼ばれる道です。
更に17号は新潟に、20号は長野に至る道となります。
この現15号は横浜市神奈川即ち江戸時代に東海道最初の宿場神奈川宿に至る、ほぼ旧東海道であり、戦前は明治1号国道として日本橋から横浜港に至る道として制定されました。
現在は品川以降は、京急電鉄とほぼ平行する感じで、品川宿(現北品川駅付近)から生麦などを経由して京浜急行線の神奈川駅を超えた青木通り交差点で1号と合流し、後の旧東海道の行程は1号となって大阪まで至ります。
対して現1号は明治国道2号と呼ばれました。昭和27年12月施行の新道路法による路線指定で現行になっても、その呼び名を踏襲されて、現在もニコクとなります。
日本橋を所謂中央通りである東海道(現15号)とは直角に永代通りを西向きにスタートし、東京駅の北側を、JRの高架を横切り大手町の交差点を左折。日比谷通りから日比谷公園手前を内堀通りに右折して、桜田門の警視庁前を左折して桜田通りを南下。
霞が関の官庁街を突っ切り虎の門から神谷町を通りこして、左側に東京タワーを見て三田二丁目を左折し、慶応大学正門前を通過して、白金から高輪台。五反田駅北側をJR山手線と交差して桜田通りから第二京浜と呼ばれるようになります。
戸越辺りをひたすら南下して多摩川を渡り、京浜急行を挟んで次第に東海道に近づいて、最後は神奈川で15号と合流して、保土ヶ谷・戸塚と旧東海道を西に向かいます。
日本橋から東京の山手側を通るこの第二国道に夜霧が降り、バックミラーに、愛しい人の顔が映るという、「有楽町で逢いましょう」のヒットから、「東京午前三時」と併せて東京ラブソングの三部作としてヒットしたこの歌、おじさんたちのカラオケでじっくり聴いてみてください。
何気に昭和の東京の粋な気分が・・・。
国道にはいろいろな面白いエピソードがあります。又の機会にご紹介したいと思います。
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