ブログ | 株式会社古河電工アドバンストエンジニアリング - Part 3
2018年05月11日

ヤマトタケル③ アズマの神社

さて、尊の奥様即ち妃でございますが、仲哀天皇、犬上氏・建部氏の先祖となった子供たちを生んだとされる、崇神の皇女両道入姫、尾張氏の姫であるミズヤ姫に加え、吉備武彦の娘吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ)等等。
その中で東国でのヒロインはあずまの語源となった出来事の主役、穂積氏の忍山宿禰の娘弟橘姫(おとたちばなひめ)でございます。

東海道を東進し相模から上総に渡る際、走水の海の神が波を起こして、船が危うくなった際に、弟橘姫が己づから入水したために、凪いで一行は無事に上総に渡ることができたとい古事記に。
この事件を東国平定後に足柄辺りで思い起こして、「吾妻はや(わがつまよ)」と三度嘆いたところから、東国をアヅマと呼ぶようになったと、お馴染みのお話でございます。

この事情に関わり千葉県内を主に弟橘姫にゆかりの地名、神社がございます。
弊社のございます市原市の自動車のナンバープレートは袖ヶ浦となりますが、この地名は弟橘姫の袖が流れ着いたとの伝承によります。
神社としては千葉県木更津市にございます吾妻神社。社伝に寄れば流れ着いた袖を納める社を建立したのが創建。社名も吾妻はやの故事に由来するとのこと。
神奈川、群馬などに吾妻神社は何か所かございます。

更に上総二宮として、千葉県茂原市には、ヤマトタケルが弟橘姫の墓標として、橘の木を植えた由来の橘樹神社がございます。延喜式内社で、唯一正史に記された弟橘姫を祀る神社となります。
東征については、古事記と書紀では相応の食い違いもございますが、常陸、陸奥風土記にはほぼ天皇に近い扱いで、記述があり関東以北に伝説と神社が多いのも事実。
大和朝廷のかなり高いレベルの英雄が、アヅマと呼ばれる国々を平定していったことは、何となく史実であったのかと想像致します。
亡くなったのちに白い鳥になって舞い降りた神社とはまた異なる、ヤマトタケルを視るような気が致します。


2018年03月21日

実在天皇と、神話のはざま(八幡さま1)

日本の場合、神話の世界と、歴代に実在した天皇の間には何となくはっきりしないベール感があります。歴史というのは、基本的に文献学でありますが、残っている文献全てに、意図的な改竄が無い筈はなく。
森友問題の財務省文書改竄を例にとるまでもなく、その時どきの実力者や政権担当者、いわば勝者におもねる形で公文書といえども作成されている訳ですから、日本の歴史に関しては割合客観的といえる(望ましい?)、中国の史書の記述との比較などで、史実と目される出来事が重ねられていくわけです。

さて来年譲位をなされる、今上陛下は125代目の天皇となっております。
天皇のお名前というのは、諱はともかく、譲位・崩御後に諡号もしくは追号で呼ばれる訳ですが、上古の天皇に関してはこれも2種類あり、推古帝が最初といわれる和風諡号と、天平年間の官人(大友皇子の曾孫、降臣後大学頭、文章博士、刑部卿等歴任)淡海三船(おうみのみふね)が神武以来41代持統帝(神功皇后、43代元明、44代元正帝を含む)までを、一括して選進されたと言われている漢風諡号があります。

わが父の世代以前の戦前教育では、神武・綏靖・安寧・・・と当時の大正天皇までの全てを、暗記させられたそうではあります。
諡号も平安期には律令体制の衰微や仏教の隆盛によるなどして、生前の院号がそのまま追号となったり、御陵の一文字を使うなど所謂漢風諡号は、怨霊を恐れた特異な例(安徳帝、崇徳帝等)を除いて江戸後期まで無くなっていきます。

天武帝が編纂を命じた史書である記紀には、概ね推古帝の時代までが、記述されておりますが、神武以来の天皇のうちの実在が客観的に認められているのは、大まかに崇神、応神、継体以降の3説ですが、この実在天皇とされた3帝以降でも実在があやふやもしくは、否定的な天皇がおりそれは神話の世界なのか、実際の史実が反映した出来事もしくは人物なのかが、もうロマンの世界としか言いようは無く、ただ楽しめばよいレベルかもしれません。

で、お題のお話。
第10代崇神天皇の和風諡号(書記での美称として)が神武帝と同様であることは、有名で「はつくにしらすすめらみこと」であります。即ち国を統べた最初の天皇という意味です。
しかし崇神以降はまた神話のベールに包まれて、15代の応神帝までの4代にもう一人の日本神話最大のスーパースターであるヤマトタケルを加えて、実在が疑問視されております。

さて、別の観点から。
明治以前に実在のでも、神話のでも宜しいのですが、神となった天皇は1名だけです。
怨霊の代表といわれる、崇徳帝でも白峰神社の祭神として祀られるのは、慶応4年の明治天皇即位に際してのことです。同様に安徳天皇も、阿弥陀時が廃仏毀釈により廃寺となり、天皇社と改称され、更に赤間宮となったのは明治8年のことです。
祭神の神名は崇道天皇でも、実際には即位はしていない早良親王以下の怨霊を鎮めるための御陵神社。創建は桓武帝時代ですが、これも即位された天皇ではありません。

八幡さんのお祖父ちゃんはヤマトタケル (八幡様2)に続きます


2018年03月21日

八幡さんのお祖父ちゃんはヤマトタケル(八幡様2)

唯一例外が八幡神、即ち応神天皇であります。
系統から申し上げれば9代開化天皇の子が実在がある程度確実視される10代崇神。その子が11代垂仁で、12代の景行までが直系となります。
景行の子が13代の成務ですが、14代は成務の兄の息子仲哀天皇となり、仲哀と神功皇后(開化帝4代の後胤)の間に生まれたのが15代の応神帝となります。つまり、父仲哀天皇の父即ち御祖父ちゃんがヤマトタケル。素戔嗚と並ぶ日本神話最大のトリックスターであります。

                      
孝元   開化               倭姫命
            崇神   垂仁        成務 
     伊香色謎命            景行   
                           日本武尊  仲哀 
                                       応神
                                 神功皇后

八幡神社の総本社は豊前宇佐市の宇佐八幡宮となりますが、この神様、いろんな託宣をなさる神様で、道鏡事件の和気清麻呂に留まらず、結構矛盾も多いのですが、自身の身の上に関する託宣では
①筥崎宮の神託を引いて、筑前国の大分八幡宮(飯塚市)が宇佐神宮の本宮であり、筥崎宮の元宮だとの託宣。
②欽明天皇時代(29代571年)に宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり「我は、誉田天皇廣幡八幡麻呂、護国霊験の大菩薩」の託宣。
③748年(天平20年)「古へ吾れは震旦国(中国)の霊神なりしが、今は日域(日本国)鎮守の大神なり」(『宇佐託宣集』巻二、巻六)と託宣
と、それぞれ意味深なことをのたまわっております。

②の託宣が、誉田別と呼ばれた応神天皇が、八幡神であるとの根拠となっており、記紀には記述は無いもののその後の東大寺要録や住吉大社神代記にあることから、奈良~平安時代に習合していったと推定されています。

宇佐社自体はおそらく元々は北九州の豪族で国造でもあった、宇佐氏の氏神ではなかったかと推定されます。神社南方の御許山山頂に奥宮として、3つの巨石を祀る大元神社があり、これが宇佐氏の磐座信仰で当初の形態と考えられます。
大神(おおが)比義(豊後大神氏)により上記②の託宣により、神社として欽明帝時代に祀られたのでしょう。
道鏡事件(769年)後に宮司制度が導入され、上記の大神氏(中央の大三輪氏から派遣との説も有)が大宮司を務め、その後小宮司であった宇佐氏が入れ替わるのは、単純に力関係によるものなのか、元々宇佐氏の方が地縁として強かったのか微妙なところではあります。
宇佐氏の一族としては、現在の出光興産のオーナーである出光家も大宮司であった時期があるとのこと。そういえば宗像神社にも出光さんのモニュメントがあったような。

八幡大菩薩(八幡様3)に続く


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