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2018年05月11日

ヤマトタケル① 陵墓編

前回から1ヵ月以上空いてしまい、連休を挟んですっかり初夏の季節になって参りました。
少なくとも花粉の量は少なくなっているようです。
お約束のヤマトタケルのお墓と神社のお話。

本BLOGでも私どもの三重支社付近にございます能褒野陵が明治になって、正式に教部省通達としてヤマトタケルの陵墓として認められたお話はさせて戴きました。

ヤマトタケルについては、古事記と日本書紀では微妙に異なったキャラクターや物語が展開されています。本名はいずれも小碓尊(おうすのみこと)で書紀では第2子で双子の弟の方。古事記では第3子で双子の記述はありません。
熊襲猛からヤマトタケルと号を献じられた表記からして書紀では日本武尊、古事記では倭健命と異なっております。

最も異なるのが父である景行天皇との人間関係です。古事記では熊襲征伐前に殺してしまった同母兄大碓尊が、書紀では東征前に怖気づいて逃げてしまい、代わりにヤマトタケルが立候補し、景行天応から最大の賛辞と皇位継承の約束を与えられます。
対して古事記では熊襲、出雲に重ねての東征に、悲嘆するヤマトタケルが描写されます。

最期は伊吹の山神により能褒野にて亡くなるのは同様ですが、古事記ではかの有名な国偲び歌 「倭は国のまほろぼ たなづく青垣 山隠れる 倭し 麗し」から4首の歌を辞世として詠じて亡くなるのですが、書紀ではこの歌は父である景行天皇が九州平定の途中で、日向にて詠んだとされております。

その後尊は白鳥となって飛んでいくのですが、古事記では伊勢を出た後河内の志幾に留まり、やがて天に翔り行ってしまうの対し、書紀では能褒野から大和琴弾原(現奈良県御所市)、更に河内古市(大阪府羽曳野市)を経て天に翔ることになります。その後この3か所に陵墓を造り、天皇は武部(建部・健部)を日本武尊の御名代としたと説明しています。

現在宮内庁はこれらの陵墓を能褒野墓と、白鳥2陵の3か所を既述の三重県亀山市。更に奈良県御所市のかっては権現山と称された長方墳と、羽曳野市軽里の5世紀後半築造とされる前方後円墳「軽里大塚古墳(前の山古墳・白鳥陵古墳とも)」を治定しています。

延喜式の諸陵式においては、記述があるのは能褒野墓のみで、所在は伊勢国鈴鹿郡となっており守戸3烟を付す、即ち御陵番として陵の守護、清掃に3戸分の人件費を朝廷が賄うことになっていたということです。元々陵とは天皇、皇后の墓を指す表現であり、ヤマトタケルの実在性はともあれ、大和朝廷として実際には天皇に準ずる位置づけをされていたようです。

記紀のヤマトタケルには、いくつかの歴史的な出来事や、それに基づく地名の由来が語られていますが、前後の天皇の事績が特に熊襲征伐についての重複が見受けられます。4世紀から7世紀にかけての大和朝廷側の何人かの英雄談を、ヤマトタケル伝説として創出していきそれに伴い、能褒野墓を造ったと考えるべきかと思います。
持統天皇5年の詔に有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとあり、この頃は古事記、書紀の編纂の時期と重なっていることもあり伝説を史実とするために、墓を特定し守護までも付けたのでしょう。これは10世紀くらいまで継続されていたようです。

白鳥陵のうち大和のそれは明治9年に、河内の方は明治8年にいずれも教部省により指定されましたが、河内の方は明治13年に現在の陵に改定されております。現河内白鳥陵は河内国陵墓図では木梨軽太子の軽之墓と記されています。


2018年05月11日

ヤマトタケル② 祀る一宮

さて、神社の件。
ヤマトタケルを主神とする一之宮は2社ございます。
まずヤマトタケルの後裔とされる氏族として挙げられるのは、以前北近江散歩で紹介した犬上氏(君?朝臣?)と建部氏(君・朝臣)、近江建部氏、和気氏(公)等であります。
犬上氏、建部氏ともに、ヤマトタケルの妃、垂仁天皇皇女とされる両道入姫皇女(ふたじいりびめのひめみこ)の子とされる稲依別王(いなよりわけのみこ)の後裔とされます。
同母弟に第14代仲哀天皇があり、同じく同母弟に稚武王(わかたけるのみこ)があって、近江建部氏、宮道氏の祖とされます。

この建部氏の祀るのが近江一の宮の建部大社でございます。
その社伝によれば、ヤマトタケル死後、両道入姫皇女が稲依別王と共に住んでいた(神勅によるとの説も)神埼郡建部郷(現東近江市五個荘付近の箕作山)の地に、ヤマトタケルを建部大神として祀ったのが創建とされるそうです。
天武天皇4年(675年)に近江守護神として、現在地(大津市瀬田)に遷座され元の山麓には建部大明神を経て建部神社が建てられています。

もう一つが和泉一宮の大鳥神社で、おとりさまの熊手で有名な、全国に展開する鷲神社をふくめた、大鳥神社の本宮であります。
延喜式神名帳に名神大社として記され、本殿の大鳥造は出雲大社造に次ぐ古い形式といわれています。

祭神は日本武尊と大鳥連祖神。実は中臣氏の祖神でもある天児屋根命と同じで、元々は大鳥氏の氏神であったものが、大鳥という名称と日本武尊は死後白鳥となって飛び立ち、河内に降り立ったという神話と結びついたと想像されます。

社伝によっても大和琴引原で留まり、更に飛び立って河内古市郷に降り、最後に大鳥の地に舞い降り、その夜に一夜にして樹木が生い茂り、千草の森と呼ばれたことから、その地に社を建てて祀ったとされています。
この大鳥連は代々本社の神職を継いでいきますが、摂関家の番頭であった程度しか記録が無く、中央豪族としての活躍も明確ではなく、かといって和泉の地は機内にあり、研究対象としては面白いかもしれません。

直接ヤマトタケルを祀っている訳ではありませんが、熱田神宮も尊に関係の深い神社ではあります。三種の神器の一つ、草薙の剱であります。
元々は素戔嗚が倒したヤマタノオロチの尾から出てきた神剣であり、天照大神に献上され、天孫降臨に際して賜り地上に還ったものです。
ヤマトタケル東征の前に伊勢の倭姫より賜り、焼津の地方名の由来にもなった、火をつけられた野の草を薙いで防いだところから草薙と名付けられました。伊吹の神への対決を前にこの剣をミズヤ姫(尾張氏)の元に残していったために、神の祟りを受け亡くなったともいわれております。

その後熱田神宮に社を建てて祀られておりましたが、天智7年に僧、道行に盗まれ取り返されたうえで宮中に置かれましたが、天武帝の病気がこの剣の祟りと判り、再度熱田神宮に祀られることとなり、現在に至ります。


2018年05月11日

ヤマトタケル③ アズマの神社

さて、尊の奥様即ち妃でございますが、仲哀天皇、犬上氏・建部氏の先祖となった子供たちを生んだとされる、崇神の皇女両道入姫、尾張氏の姫であるミズヤ姫に加え、吉備武彦の娘吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ)等等。
その中で東国でのヒロインはあずまの語源となった出来事の主役、穂積氏の忍山宿禰の娘弟橘姫(おとたちばなひめ)でございます。

東海道を東進し相模から上総に渡る際、走水の海の神が波を起こして、船が危うくなった際に、弟橘姫が己づから入水したために、凪いで一行は無事に上総に渡ることができたとい古事記に。
この事件を東国平定後に足柄辺りで思い起こして、「吾妻はや(わがつまよ)」と三度嘆いたところから、東国をアヅマと呼ぶようになったと、お馴染みのお話でございます。

この事情に関わり千葉県内を主に弟橘姫にゆかりの地名、神社がございます。
弊社のございます市原市の自動車のナンバープレートは袖ヶ浦となりますが、この地名は弟橘姫の袖が流れ着いたとの伝承によります。
神社としては千葉県木更津市にございます吾妻神社。社伝に寄れば流れ着いた袖を納める社を建立したのが創建。社名も吾妻はやの故事に由来するとのこと。
神奈川、群馬などに吾妻神社は何か所かございます。

更に上総二宮として、千葉県茂原市には、ヤマトタケルが弟橘姫の墓標として、橘の木を植えた由来の橘樹神社がございます。延喜式内社で、唯一正史に記された弟橘姫を祀る神社となります。
東征については、古事記と書紀では相応の食い違いもございますが、常陸、陸奥風土記にはほぼ天皇に近い扱いで、記述があり関東以北に伝説と神社が多いのも事実。
大和朝廷のかなり高いレベルの英雄が、アヅマと呼ばれる国々を平定していったことは、何となく史実であったのかと想像致します。
亡くなったのちに白い鳥になって舞い降りた神社とはまた異なる、ヤマトタケルを視るような気が致します。


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