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2017年10月03日

戦争は・・・

さて、中秋の名月の前日でございます。勤労感謝の日となった新嘗祭は、実りを寿ぐには少々遅い感がございます。
その代わりというか、初秋の望月の夜に枯れ色の美しい芒を備え、刈り取った稲を干すまだ蒸せるような香りに、豊作を感謝しほっと一息という、ちょっとしたお祭り気分には最適の農耕に起源をもつ行事かなと、勝手に想っております。

完全に私事ですが、父が亡くなって13年余りになります。亡くなった直後に、母から渡されたFAXがございまして。生前の父宛に厚生省(当時)から問い合わせの返信として出されたもので、わたくしにとっては伯父、即ち父の兄の戦死に関わる状況を知らせるものでした。

755空(元山空)18年11月21日7名戦死同一機
外南洋ギルバート諸島方面に来襲せる敵行動部隊攻撃のためルオット基地発ナウル基地に帰投中自爆戦死。』
以上、原文全文。
元山空(がんざんくう)は緒戦において、小澤中将指揮下でプリンスオブウェールズを撃沈し、ラバウルにて大空のサムライで有名になった、坂井三郎さんなどの撃墜王を輩出した航空隊で、17年9月20日 戦闘機隊を分離、第二五二海軍航空隊に改編。 11月1日 「第七五五海軍航空隊」に改称された部隊です。

17年6月5日ミッドウェー海戦、18年2月にガダルカナル撤退を経て、日本海軍は圧される一方の苦しい状況になります。
伯父がどういう経緯でこの時期に755空に参加したのか、これだけの資料では判然としません。
昭和18年11月にはブラウン、ルオット、マロエラップ、ナウルの基地(飛行場)に40機の一式陸上攻撃機が配備されていました。

史実として、18年11月21日の戦いというのは、所謂ギルバート諸島沖航空戦(ぎるばーとしょとうおきこうくうせん)と日本では呼ばれ、日本海軍航空隊とアメリカ海軍機動部隊の間の一連の戦いです。タラワの戦い・マキンの戦い支援のためにギルバート諸島(赤道直下マーシャル諸島の南方のサンゴ礁からなる、現キリパス領の諸島)付近へ展開したアメリカ海軍第50任務部隊に対し、日本海軍の基地航空隊が4次に渡り攻撃をかけ、日本軍は多大な戦果を挙げたと信じましたが、実際にはアメリカ艦隊は小さな損害しか生じていなかったようです。

米海軍第50任務部隊は4群に分かれた大型正規空母6隻、軽空母5隻を中心とした艦隊で、搭載機は約660機に及びます。11月20日アメリカ軍機動部隊は、ギルバート諸島やミリ環礁、ジャルート環礁(ヤルート)の日本軍航空基地を激しく空襲し、飛行艇3機などが地上撃破され、日本軍は再び航空機による反撃を試みたが、索敵に出た20機のうち12機が失われ、クェゼリン環礁のロイ=ナムル島(ルオット)からの攻撃隊15機は目標を発見できず1機未帰還となったとのことです。

11月21日朝、日本側は攻撃を免れたマロエラップ環礁から5機の索敵機を出し、ギルバート諸島付近で5群のアメリカ艦隊を発見。この報告に基づき宮前信己大尉率いる第755航空隊の陸攻14機がルオットから出撃し、アメリカ海軍第50.3任務群を攻撃。
この攻撃隊は雷撃及び体当たりにより、空母2隻と駆逐艦1隻の撃沈などと日本では報じられましたが(所謂大本営発表)、指揮官機を含む7機が未帰還となりました。アメリカ軍側の記録によると、軽空母「インディペンデンス」が魚雷1発を受けて損傷。この戦闘を、日本側は第一次ギルバート諸島沖航空戦と命名しました。
つまり、伯父の搭乗した一式陸攻はこの未帰還機7機のうちの1機のいずれかということなのでしょう。
一式陸攻は米軍からベティと呼称され、脅威的な航続距離を確保するために翼内に5,000リットルのガソリンを積載し、そのためにライターと称されるほど発火しやすく防禦に劣った機体で、乗員は7名。後に第一回目の桜花攻撃隊(神雷部隊)を率いて、以降の桜花出撃を戒めて散った野中五郎少佐(戦士による二階級特進で海軍大佐)の乗機であり、野中さんも、この数日後の第2次ギルバート諸島沖航空戦に参加しています。

亡父の話の記憶をたどれば、帰ってきた遺骨の箱には何も入っていなかったのか、石が一個入っていたのか、今となれば非常に曖昧です。若干20歳の海軍下士官は、帰省に際し弟である中学に入ったばかりの父にカレーライスを始めて食べさせてくれたそうです。
戦争に負けて72年、伯父の戦死から74年。日本があの戦争に引きずり込まれた状況に、今の北朝鮮状況が似ているとの説もあるようです。

こうして戦闘状況の記録だけを見る限り、戦力の差の甚だしさが悲壮であることは認識できます。但しこれは軍隊と軍隊の戦闘であり、此の後日本の主要都市とその市民が無差別に殺戮される状況とは異なるものです。
この戦いは勇壮かつ、悲しくおろかな戦争の一部であります。若くして散った伯父は水兵帽も凛々しく子供のころ仏間の写真に納まっていました。
願わくば半島北の国交のない国が、以前の日本の様に自棄にならないことを祈ります。


2017年09月04日

神社の格式①延喜式内外

9月に入り、関東は例年より空気が秋の色を含む気配が早いような気もします。
夏至を既に2か月近くも過ぎ、秋分に近くなって陽の高さ具合も視野に入ってくるせいなのかもしれません。
関東は夏の間連日の雨で寝苦しい夜は無いにせよ、農作物の実りには陰りを落としております。

このブログでは幾度か日本の神様や神社をテーマにして参りましたが、今回は神社の格付けについてです。

大きな神社には由緒書きや、石柱にその神社の社格が示されていることが多いですね。例えば○○国一の宮とか、旧官幣中社といった類です。更には正一位△△稲荷という幟ですとか。

それぞれに時代や時の権力により神社、そして神様自身も挌付けされておりまして、まず古くからでは式内社と式外社(しきげしゃ)という格付けがあります。
これは平安中期の延長5年(927年)に成立した、延喜式の9巻と10巻(神名帳と呼ばれます)に記載された神社か、されなかったそれ以外の神社かということです。
延喜式自体は律令官制における格式(施行細則と捉えるのが判りやすいかも)であり、醍醐天皇が時の宰相藤原時平に命じて編纂を開始致しました。時平といえば、天神様となった菅原道真のライバルであり、道真大宰府左遷を画策した人物とされており、道真(後天神様)の祟りで39歳(太政大臣)にて病死したとされる敵役であります。時平死後後に藤原氏主流となり史実として確認される最初の関白となる、弟藤原忠平が完成させました。

これに記載された神社は全国で2,861社、鎮座します神々の数は3、132座でございます。

この式内社にも格付けがございまして、まず官幣社と国弊社でそれぞれ大小があります。
官幣社とは、朝廷で神社などを主管する官である神祇官から幣、即ち幣帛を毎年2月の祈念祭に受ける神社であることを示します。幣帛とは祭祀において神に奉献する神饌以外のものを言います。
具体的には当時貴重であった布、衣服、武具、神酒などであります。

国弊社とは神祇官に代わって国司から幣帛を受ける格式の神社となります。今でいえば国から受けるか県知事から受けるかという違いでしょうか。
現在の感覚からすれば、国幣という方が何となく国立みたいな気もしますが、官は神祇官を示し国は国司をしめすということですね。

時代的にその少し後の平安後期~鎌倉時代に成立したとみられるのが、一の宮という格式でこれは旧国内で最も有力(社格が高い)とされる神社で、各(旧)国にあり場合によっては二宮、三宮まで、場合によっては四宮という地名に残っているところもあります。
起源としては国司が国内諸神社を巡拝するに当たり一番先に参拝する神社ということのようですが、これは上記の官幣大社のように朝廷や国司が決めたのではなく、諸国の信仰が厚く由緒が深い神社が自然発生的に序列化したもののようです。従って一の宮の祭神が必ずしも記紀等の国の正史に記載の、いわば全国的(当時でいえばグローバル?)に有名な神様とは限りません。


2017年09月04日

神様の格式②二十二社と神格

延喜式以降の特別な各付けとして、平安時代中期以降に京を中心に朝廷から特別の崇敬を受け、国家の重大事などに朝廷より奉幣された神社があります。その数は段階的に増え、平安時代後期に22社となりその数が固定されそれら神社の総称を二十二社と呼びました。
格式の高い順から、上七社、中七社、下八社と分けられていますが、全てが式内社ではなく意外に藤原氏のみならず各氏族の関連する神社が含まれているのは、面白いと感じます。

因みに上7社だけ紹介すると当然筆頭は、伊勢の内宮、外宮であり、別格となります。
次が源氏ゆかりの石清水八幡宮、3番目が山城一の宮の上・下賀茂神社で元々は古代賀茂氏の氏神であります。次がお酒の神様で有名な、古代外来氏族の秦氏の神様松尾大社。

元々は平城京にあり桓武天皇外戚部族の神社が、平安遷都に従い京都の平野に鎮座した平野神社。皇太子守護の神社として、また多くの臣籍降下氏族の氏神として有力視されたのでしょう。
次はこれも秦氏の祖霊神が元々のおこりである、伏見稲荷。言うまでもなく全国稲荷社の総本山です。最後にやっと藤原氏ゆかりの春日大社となり、七社となります。

中七社は奈良県(大和)主体となります。
下八社を含めて、京都(山城)、奈良(大和)以外は大阪の住吉さん(摂津一の宮)と、近江の日吉神社、兵庫(摂津)の廣田神社だけとなります。
廣田神社の祭神は天照大神の荒魂であり、平安後期より神祇伯を独占する花山(かざん)源氏の白川家とのかかわりの深い神社です。

さて、上記は神社の格式となりますが、神様にも格付けがあります。神階と云います。
律令で人臣に授けられた位階と全く同じですが、仕組みとしては文位(狭義の位階)、武位(勲位・勲等)、品位の3種類があります。
さすがに人臣のように初位は無く正六位から正一位までの十五階となっており、良く都内で目にする「正一位 稲荷神」という赤い幟のあれです。
勲位については、武勲に対する位階で7世紀から11世紀まで神様にも与えられましたが、以降は授与されていません。
品位は、元々皇族に授けられた位階で例は殆どなく宇佐八幡の八幡神に一品、その比売神に二品くらいのようです。

元々は食封や位田を伴い経済的な基盤となっていましたが、権力の移ろいにより朝廷からの給与は滞り無くなってしまった後は神格よりも社格の方が重視されていくようになります。


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