本HPを立ち上げた時から、ご愛顧を戴いて参りました本ブログでございますが、筆者が9/15をもって退職致しますので、一旦終了とさせていただきます。
なかなかヒットの難しい、企業のホームページに少しでもお客様のご興味を引けたらと、本業に全く関係のない内容で書いて参りました。
おかげさまで月間500を大幅に上回るご訪問となり、深く感謝申し上げます。今後は筆者のPrivate Home Pazeにてお目にかかる機会があればと思います。
末尾ながらご来訪戴きました皆様のご健勝を祈念して最後のページを閉じさせて戴きます。ありがとうございました。
随分前のブログにて、御堂関白道長の娘彰子が生んだ、後一条天皇立太子についての経緯を紹介しておりますが、今回は彰子のサロンについてのお話です。
彰子のサロンが形成される前のサロン。
伊勢物語に端を発する高階家と伊勢神宮の差し障りを利用され、高階家を母方にもつ定子(1001年崩御)の産んだ敦康親王ではなく、道長の娘彰子の産んだ後一条天皇が立太子し、定子も若くして亡くなり、そのサロンに所属していた「清少納言」はおそらく一条天皇と定子との娘である脩子(ながこ・しゅうし)内親王に引き続き仕えたと思われます。
脩子内親王が枕草子の伝来に関与したとの説もあるようです。
彰子が入内したのが、999年11月11歳でございますので、サロンを形成する女房達が集まってきたのは、更に数年を過ぎ1008年20歳で後一条天皇を産んだ頃前後が、華やかな時期ではなかったかと思います。
彰子に仕えた有名な女房連のうち、最も古株は「赤染衛門」だと思われます。更に「紫式部」が1006年頃。
その後「伊勢大輔」と「和泉式部」が1008年頃との説が有力です。
更に和泉式部の娘「小式部内侍」と、紫式部の娘「越後弁」(後に大宰三位)。
何れもその筋の研究者の間で有名な才女連ですが、一般的にはやはり 紫式部と清少納言。更にわたくしの好きな和泉式部でしょうか。今回は彰子のサロンという事で、定子の女房であった清少納言さんには少しだけ。
というのも、これらの人たちの人間関係が実に興味深い。
まず紫式部。存命時にこの名前で呼ばれてはいなかったようです。父、夫ともに藤原氏であり、そこから藤の一文字に父が花山帝近侍時代の職名 式部大掾に因んで「藤式部」と呼ばれていたようで、紫は源氏物語の後半の主人公「紫の上」から、後に付けられたようです。
本名(生年も)は意外なことに謎に包まれていますが、藤原香子(かおりこ・よしこ?)という説も。彰子に仕える前の独身時代に、道長の正妻 源倫子付の女房として仕えており、その後結婚(998)・出産(999)、を経て夫である藤原山城守宣孝と1001年に死別。源氏物語執筆中に道長に乞われて、1006年に出仕し、1013年頃までいたようです。源氏物語はこのサロンで完成され、紫式部日記も道長の要求で執筆されています。
赤染衛門は母が衛門出生時に二人の男性と付き合っており、前夫平兼盛と、再婚先の赤染時用の間で裁判沙汰になったというエピソードが。
夫は文章博士 大江匡衡であり源雅信に出仕し、その娘 倫子が道長の正妻になるときに、付従い更にその娘の彰子に仕えました。同僚の和泉式部と女流歌人として並び称されており、わたくしは読んでませんが栄花物語で有名な方です。
伊勢大輔は、祖父が古今和歌集の選者として有名な大中臣能宣、父は伊勢神宮の神祇官。夫は高階成順。歌人としては後拾遺に27首もの歌が集力されており、晩年に白河天皇の傅育役も。
さて、和泉式部日記などでの奔放で大胆、且つ華麗な男性関係という女ぶりが、小気味よい和泉式部ですが、父は越前守大江雅致、最初の夫は和泉守 橘道貞で任地の和泉にて小式部内侍を設けています。任地から帰京してから夫とは別居状態となり、その時に冷泉天皇第3皇子 為尊親王との熱愛が喧伝され大江家からは勘当。
その為尊親王死後その同母弟 敦道親王からの求愛を受け1子を設けますが、敦道親王も早逝し、一度は勘当された実家に戻りますが、その後娘小式部内侍と共に35歳にして彰子の女房として出仕することになります。
現代でこそ35歳は女盛りという感じですが、両親王ともに随分年下。それが随分と派手なデートなどで世間に広まっておりますが、その辺りは両親王への追慕の様子と併せて「和泉式部日記」で是非楽しんでください。
人間関係でいえば、和泉式部と清少納言は和泉式部集に残された歌のやりとりを見る限り、しゃれた大人のお付き合いをしているように見えます。
紫式部に関しては、その日記で清少納言への不快感を明確にしておりますし、和泉式部に対してもいわゆる上から目線で良い印象を持っていないのは明白です。
和泉式部入内に際し面倒をみたのは赤染衛門であったりと、彼女たちの入内の経緯など、これも興味深いお話がありそうです。
さて前置きがすっかり長くなりました。今回のメインは紫式部と、和泉式部の娘であります。
歳の順からすれば、和泉式部と橘和泉守道貞との間の娘 小式部内侍でしょう。美貌と歌の才能を母から濃厚に受け継いでおり、その恋愛関係も華麗さでは和泉式部にも引けを取りません。
お相手は道長の子供たちの頼宗、教通等等。
彰子にも随分気に入られた様子が内侍という職名に残っていると思います。ただ残念なことに藤原公成との間の男子分娩に際し28歳の若さで亡くなってしまっています。
「無名草子」には理想的な女性として記述があり、彼女が亡くなった際に母 和泉式部の詠んだ歌は後拾遺和歌集に載っており、愛傷歌の傑作として非常に有名です。
とどめおきて誰をあはれと思ふらむ 子はまさるらむ子はまさりけり
対象的に長生きしたのは、紫式部の娘「越後弁」(後に大宰三位)であります。
紫式部と藤原宣孝との間に999年に生まれ、本名は藤原賢子。父宣孝は1001年2歳の時に死去してしまい、その後紫式部とその実家にて育てられたようです。
その後既に皇太后となっていた彰子に15歳頃に女房として出仕しますが、紫式部は1012年頃に既に離れていますので、和泉式部母娘のように同時期の出仕は無かったようです。
出仕時の女房名は祖父(紫式部の父 藤原為時)の官職「越後守」と「左少弁」から越後弁。
母紫式部はかの日記等の記述から、気難しそうで女房仲間への辛辣な批評など、決して社交的でフェミニンな魅力に溢れた(和泉式部や、その娘のように)女性ではなかったようなイメージですが、その娘の賢子は明るくおおらかな人柄であったようで、複数の貴公子の恋人ができ、小式部内侍にフラれた藤原頼宗などもその取り巻きだったと伝えられてます。
20代半ばに道長の甥 兼隆もしくは公信(藤原為光の子)との間に子供が。そして同時期に春宮(実質皇太子)敦良親王妃の藤原嬉子(道長の娘)が親仁皇子を出産し、そのまま亡くなってしまい、彰子皇太后が厚く信任していた賢子が乳母に選ばれました。
その10年後、三十代後半(和泉式部の再婚もこの時期ですね~)に、10歳年上で貴公子ではないにせよ受領として莫大な財宝を持っている、高階成章と結婚し高階家主流となる男児為家を生みます。
更に乳母として育てた親仁親王が後冷泉天皇として踐祚すると、彼女は従三位に叙され(1045年)更に夫高階成章が太宰大弐として大宰府に下向(1054年)し、以降太宰三位と呼ばれるようになります。
夫に死別、後冷泉帝の若すぎる(44歳)崩御などを経て80歳にて息子成章の歌合にて代詠を務めている消息が最後になります。
賢子は実は母がどちらかといえば苦手であった、歌詠みとしても後拾遺集などに37首が残るなど優れていたようです。
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